続「ヘスティア的、ヘルメス的」2014.08.12
武の映画は、ヤクザ・暴力系とお笑い系と、ほぼこの二つに分類することが出来る。あえて言えば、前者はヘスティア的、後者はヘルメス的ということになろうか。
もちろん、ふたつの傾向をミックスしたものもあり、「3-4×10月」「ソナチネ」「キッズ・リターン」等がそれで、面白いのもこの系統だ。いずれも初期の作品。
「ソナチネ」は、ヤクザ・暴力系の色濃い作品だが、沖縄で武が組の子分たちと子供じみた遊びに熱中する幾つかのシーンは格別で、浜辺で子分たちが紙相撲振りで相撲をとるシーンの楽しさは忘れがたい。また、同じく夜の浜辺で、みんなで花火を銃撃戦のように打ち合うシーンの楽しさ・美しさも素晴らしく、更にこのシーンは、映画の終盤に用意された、屋内の暗闇の中での本物の銃撃戦に重なり、虚実を一体としたその映画的なレトリックの見事さに舌を巻いた。 どういう事情があったのか、わたしの知るところではないが、作品を重ねるにつれて、ヘルメス的傾向、即ち、フットワークの軽さが失われ、なんだか妙に深刻ぶった、退屈極まりない「アウトレイジ」2作につながる。
「そして父になる」
福山雅治・尾野真千子夫婦には5歳の息子がいる。一方、リリー・フランキーと真木よう子夫婦には3人の子供がいて、長男が5歳。このふたりの男の子が、実は産院で取り違えられていることが5歳になったときに判明し、さて、どうしたものかと、両夫婦、とりわけ、福山が悩みに悩んだ挙句、出した結論は …? というのが話の主な内容。
この映画の監督、是枝裕和の作品もほぼ全部見ているが、面白いと思ったことがほとんどない。 よく言えば、丁寧に丹念にお話を紡ぐのだが、わたしにはそれが、単に段取りを型どおりにふんでるだけで、カッタルイとしか思えない。
この映画も、そんなわたしの先入観を裏切ることはない。
福山は大手デベロッパー(?)のエリート社員で、リリーは、田舎の町の電気屋を営んでいるが、認知症の父親も含め6人の家族がおり、妻も生活のために弁当屋のパートとして働いている。
福山はエリート社員という設定を裏切ることなく、仕事仕事で家庭を省みることが少なく、子供との接触は稀だ。一方、リリーは、仕事が暇であることも手伝って、昼となく夜となく、子供たちと楽しそうに遊んでいる。
更に。福山は、彼が幼時のときに母が家を出て行ったという<事件>があって、父への不信感がいまに至るまで消えず、後妻に入った女性にも馴染めず、実家を訪れることはほとんどない。 要するに、幼時期、父との接触が希薄であったことが、彼の父としての振る舞いを困難にし、あるいは、躊躇わせてもいて、そんな男が、はたして<父>になりうるのかと、そういう話なのだが …‥
それにしても、このあまりにも分かりやすい、好対照を絵に描いたような両家・両者の設定はどうなんだろう?
これまた、先の分類に従えば、福山家はヘスティア的、リリー家はヘルメス的と言えそうだが、河野哲也は、剛体、流体という言葉を使って世界の仕組みを分類している。
(リュス・イリガライによれば)西洋哲学は、地水火風の四元素のうち、土・地に特権的な地位を与え、地の剛体性を基本メタファーとした存在論を形成してきたと指摘する。(中略)個人のアイデンティを強調する実存哲学も、人間のあり方を堅い物質であるかのように捉えている。男性の存在論は、流動的な存在、とくに空気を無視する。空気は、形がなく、境界がなく、組み立てることができない。男性の存在論の規定にそぐわない存在だからである。イリガライの表現を使えば、女性は移動する存在であり、「流体」である。 しかし、私たちは、空気のなかにこそ住むのであり …
この「剛体・流体」理論に従えば、福山(家)は剛体的、リリー(家)は、流体的ということになろう。このことは、前者の住まいが都会の高層マンション、後者が田舎の職住兼用のボロ家であることで、これまた図式的に示されている。
前回、サッシのない我が家が暴風雨にさらされ、その無防備が家族の絆を確認させたと書いた。という例にならえば、イソップだかグリムだかの「三匹の子豚」の、わらの家より、木造の家より、レンガ造りの家こそベスト、という教えは、家庭・家族解体の勧めだった、ということになる。
上映時間130分がいかにも長い。それは前述したように、前半の、福山家に流れる微妙なすきま風の描写が丁寧すぎる等々が遠因になっているのだが、なにより、息子を取り替えることになった決定的な理由・事情がはっきり示されないために、息子が取り替えられて以降、あれやこれやがただただ感傷にまぶされて進行していく、そのカッタッルさが長いと思わせたのだ。 わたしには分からない。子供を取り替えるべきかどうかで、とりわけ福山夫妻は悩むのだが、そんなもん、夫婦が別れても、子供が父・母の家を行ったり来たりしている例などフツーにあるのだから、籍は移しても、子供たちはふたつの家庭・家族の間を自由に行き来すればいい、という結論を下せば済む話ではないか。そして、その中で、福山は父親としての学習を積んでいく、剛体から流体への変化の過程を描けばよかったのだ。
この映画での見どころは、尾野真千子と真木よう子。さして興味のなかったふたりだが、なぜ最近この女優さんふたりが重用されているのかが、この映画を見てよく分かった。上手いです。