「アウトレイジ ビヨンド」はもう終わってる2014.08.12
先週の土日、台風が吹き荒れた。競馬が中止になるかと思われた日曜。我が家の窓の外では、風が唸り雨は窓ガラスを激しく叩き続けているのに、TVに映る札幌・新潟・小倉の各競馬場では、なにごともないかのように、通常通り粛々と競馬が行われているので、とても奇異な感じがした。
サッシというものは、いつから家庭に導入されるようになったのだろう。
わたしが子供の頃は、台風が来るとなると、家族総出で雨戸に十字にした板を打ち付けたものだ。なぜ? 雨戸が風に吹かれて飛んだり、雨戸の揺れが窓ガラスを割るのを防ぐためにです。
また、台風と言えば停電だ。台風時に限らず、昔はよく停電があった。だから、どこの家にもろうそくがあった。いま、ろうそくなんてフツーの家にはないでしょ。
我が家には蔵があって、家が危ないかも、ということになるとみんなでその蔵に避難した。激しい雨風におびえる私たちに、母はいつもこんなことを言っていた。「うちの蔵がダメなら、日本中どこにいたってダメだ」と。
一本のろうそくのもとに家族が不安を抱えながら肩をよせあっている光景。思い出すと、ウルッとしてしまう。
場所についての現象学を展開しているエドワード・ケイシーは、人間の住み方には根本的に二つの様相があると主張する。ひとつは、ヘスティア的な住み方であり、もうひとつはヘルメス的な住み方である。
ヘスティアとは、ギリシャ神話におけるかまどの女神であり、家と家族的生活の中心である炉端を象徴する。(中略)
よって、ヘスティア的住み方とは佇むことであり、留まることであり(中略)共に居続けることである。(中略)
他方で、ヘルメスは、その韋駄天で知られるギリシャの神である。(中略)彼は、道路、旅行者、横断の神であり、国境の守り手であり、(中略)盗賊と嘘つきと悪知恵の庇護者、運動とコミュニケーション、水先案内、交換と商業の神である。 (河野哲也「境界の現象学」)
二本の日本映画を見る。ともに、公開当時評判になっている。
「アウトレイジビヨンド」
北野武は「ソナチネ」で終わっている、というのがわたしの評価だ。
前作の「アウトレイジ」は、悪人ばかりが出てくる、みたいな触れ込みであったが、ただただドンパチやるだけで、だから悪いの? というような、まことに寒々しい映画だった。今回も同様の印象。
設定されている時代がよく分からない。このブログでも紹介した溝口敦の「溶けていく暴力団」によれば、ヤクザはもう斜陽産業もいいとこで、例えば、他の組の幹部クラスを殺すために鉄砲玉になる、あるいは、自分はやってはいないけど身代わりになって刑務所に入る等々を、若いヤクザが引き受けたのは、刑期を務め上げて出てきたときには、それ相当の身分が約束されていたからだが、いまはもうそんなご褒美などなく、それどころか、発砲などすれば組が解散に追い込まれかねないので、そんなことは組織的に許されないのだ。こんな情けない現状だから、血気にはやる若者はヤクザになんか憧れないし、そもそも、ヤクザ組織は疑似家族として成立しているのだが、多くの若者は、親分子分、つまり親子関係をウザイと思っているから、もうなり手がいない。だから組としても、せっかく入ってくれた若者を無闇に鉄砲玉になんかしないのだ。この映画はそんな実情とはまったく関係ないところで作られている。
あるいは。昔は、組のものが刺青を入れるというと、組・親分がその費用をもったらしいのだが、いまはもうそんな金銭的余裕もないという。これなんか使えそうなのに。
映画の中で、若いヤクザが殺されて、ゴミ置き場みたいなところで裸で転がされているシーンがあったが、彼等の背中の刺青が、お金が払えなくて中途半端なものになってるとか、その刺青は絵具かなんかで描いてあって、だから雨に打たれて半分消えかかってるとかすれば、彼等の死の無残さも強調されるし、第一、笑えるでしょ。
みんななにかと言えば大きな声で怒鳴るが、いまどきそんなヤクザがいるのかな?
対抗する組が存続をかけてアレコレ駆け引きをし、その間で、小日向さん演じる刑事がチョコマカするんだけど、みんなアタマが悪すぎて、このアタマの悪さが、彼等の悪党振りをチンケなものにしてしまってる。
結局、武が書いているらしいホンが悪い。誰かしかるべきひとに頼めばいいのに、とずっと思っているのだが。
ワンシーンというかワンカット、「おっ」と思ったところが。組のトップから引き摺り下ろされた三浦友和が貧乏たらしい身なりでパチンコをしていると、スーッとその隣にひとがやってきて、ドスで刺し殺してしまうのだが、それが武。フツーの俳優がやると、どうしても殺気やそれなりの気配を感じさせるのだけれど、それがない。通行人みたいに現われてブスッ。凄いと思った。
「そして父になる」について書こうと思ったが、長くなったので今日はここまで。