「劇的」の向こう岸 「サウルの息子」を見る②2017.02.14
監督ネメシュ・ラースローにとって「サウルの息子」は初の長編映画であるという。そのこともあって、最初に見た時は、若さゆえの暴走がもたらした奇跡の傑作だと思ったが、二度目を見て、それがいかに愚かしく誤った認識であるかを悟った。
とにかく登場人物が数百人という映画である。その大半はアウシュビッツの囚人役で、そのまた大半は全裸で山積みにされ、それを免れえたとしても、カメラはほとんど常にサウル及び彼の仲間にピントを合わせていて、彼らの背後を右往左往するだけの囚人役の彼らはピンボケ状態、だからどれだけ熱演しようとどこの誰やら分からない、役柄同様、二重三重に<人としての尊厳>を踏みにじられていると感じても不思議ない、そういうおそらく鬱積した心持ちを少なからず抱えているはずの数百人を束ねるだけでも、およそ常人のなしうることとは思えない。
ラスト近くの。他の収容所から送り込まれた大量の囚人たちを、ガス室に送り込む時間もないと判断した兵士たちは、バンバンと銃を撃って彼らを殺し、あるいは、生きたまま穴の中に追い込んで、火炎放射器でもろとも焼かんとするシーン。ここでも、カメラはラビを探し回っているサウルを追いかけていて、実際にはいまそこでなにが起こっているのか、夜と言うこともあって、具体的には分からない、しかし、囚人たちの阿鼻叫喚、泣き叫ぶ女性や子どもたちの声が聞こえ、そして、銃器から放たれる大小の光が逃げ惑う人々の姿を明らかにする、こんなリアルで美しく悲惨なモブシーンは見たことがない。これはあらかじめの周到な計算と、それに基づく綿密なリハーサルなくしては作りえないシーンで、なおかつ、数百人が当初の予定通り動いたとは思えず、ということは、想定外のハプニング的なことは随所で起こっていたはずで、それさえもうまく画面に取り込んだと思われる。人並み外れた冒険心や持って生まれた才能だけでは到底なしえない離れ業だ。
ちょっとしたことから主人公が危機的な、思いもよらぬ状況に追い込まれ、はたして彼・彼女はそこをどう切り抜けるのか、というのは、映画の、よくある、最大の見せ場で、サウルがそうなってしかるべきシーンは何度もあるのだが、この映画ではそんな<美味しい>場面を全部スルーする。危ないぞと思わせるものの、それ以上のことは一切起こらない。最後の見せ場というべき(?)兵士と囚人たちの銃撃戦はその典型例だ。そもそも暴動が起こるきっかけが分からないのだが、とにかく、囚人のひとりが銃を放ち、それを合図に(?)、囚人たちはどこから手に入れたのか分からない銃を手に手に持って、果敢に銃撃戦を始める。しかし。通常の映画なら、両者を交互に映し出すことでこのシーンの迫力を描きだすはずだが、カメラはそんな<観客へのサービス>を放棄して(?)、死んだ<息子>を抱えて仲間の背後に隠れているサウルを追うだけなのだ。にもかかわらず、銃撃戦の怖さも生き延びようとする囚人たちの必死さも十分に伝わり、さらには、サウルはもしや敵の銃弾に撃ち抜かれるのでは、というハラハラ感まで生みだしてしまうのだから、この監督の手腕にはお手上げだ。
まだまだ書きたいことは山ほどあるが、わたしの能力が追いつかない、というか、無理に追いつこうとして疲れてしまった。ああ、そうだ、これは書いておかねば。先に「カメラはサウルを追うだけだ」と書いたが、正確にはそうではなく、事態は逆だ、サウルはカメラに誘導されて動いているのだ。その証拠に(?)、冒頭、サウルは遠くから、まるでカメラに誘われたように歩いてきてなんと、ピントが合ったところで止まったではないか。