丸裸の偏屈2017.02.20
引越しの準備ほぼ完了。わたしの胸の高さほどに積まれた段ボール箱が、部屋の6~7割を占めている。まるで倉庫の中で暮らしているような。カーテンはなく、壁も剥き出し、冷蔵庫、種々の引き出しも空っぽで、丸裸の空間。寒さもひとしおだ。
以前にも書いたが。この10年ほどか、わたしの戯曲が毎年諮ったように毎年20~25本ほど、いろんなひと・グループによって上演されている。月に2本の上演申し込みがある計算になるが、今年に入ってなんの音沙汰もなく、記録が途切れるかと思っていたら、2月に入ってドドっと帳尻を合わせるかのように4本の上演希望が。まことにありがたき幸せだが、しかし。これも以前に書いたことだが、リクエストされる戯曲は決まっていて、登場人物が少人数のものに限られているのだ。実質ふたり芝居の「かごの鳥」が2件、それに、3人の「あの大鴉、さえも」と、6人の「酔・待・草」。うーん。あるんですよ、わたしには、もっと大人数が登場して、もっと面白くて、もっと最近に書かれた戯曲がいっぱい。でもこの傾向はやっぱり、この国の演劇人口の減少化の反映なんでしょうな。
この減少化を如実に表す別例が他にもあり。大学で教えた福谷がOMS戯曲賞を受賞したことは暮れに書いたが、去年の応募総数はなんと48本だったとか。賞の最終候補には8~9本残ったはずだから、6本に1本は最終候補に選ばれるわけである。日本のフィギュアは凄いぞ、なんてことでいまや大人気だが、しかし、世界のフィギュア人口ってどれだけいるの? サッカー人口の1万分の1くらい? もっと少ないかも。なんかね、OMS戯曲賞ってそんな感じがしてしまう、ほんとはすごいマイナーなんだって。わたしが選考委員だった20年前には、70~80本ほどの応募があったはず。この戯曲賞への応募資格は、作家が近畿圏内に住んでいるか、作品が圏内で上演されたものと限定されているが、応募資格を有する戯曲は、おそらく毎年数百は発表されているはずで、にもかかわらずその十分の一程度しか応募されないのはなぜなのか。質は量に比例するのだ。関係者はその理由・原因を探って、刷新すべきは刷新し、真摯に応募数倍増計画を練るべきではないか。わたしには直接な~んも関係ないのだが、なんとも歯痒い。
いいのかな? 例年、受賞作の出版パーティが大阪ガス主催で開かれていて、その案内が今年は久しぶりに届き、ひとが集まる場所には出来るだけ行かないようにしているわたしだが、福谷に一言お祝いの言葉を伝えようと思い、出席の返事を昨日送ったばかりなのに、いいのかな? こんなこと書いて。まあ、いいか。どうせ少なからずの人々から、偏屈な文句言いの爺と思われているのだから。