「汚れた血」には贅肉がない2014.08.28
ようやく涼しくなったのでウォーキング再開。朝食前に1時間。
会うひとの誰もが申し合わせたように、「太りましたね」と言う。確かに。自覚あり。外観などいまさら気にしても仕方ないが、太ると日常生活に支障をきたす。ビローな話で申し訳ないのですが、トイレで大の用を足したあと、お尻を拭くのに腹が邪魔になって苦労をするし、服・ズボンがどれもパンパンで苦しい、等々。暑いと運動不足になり、にもかかわらず、有難いことに食欲は減退しないし、それに加えて、歳をとると基礎代謝が低下するから必然的に太ると、こういうことである。
久しぶりに「汚れた血」を見る。10年ぶりくらいか。
1986年公開。確か舞台美術家の島(次郎)さんと電話で雑談していて、最近なにか面白いもの見ました? という話になり、島さんが「汚れた血」を推薦したので見に行ったのだ。
ほんとかな? と半信半疑ででかけたのがよくなかった。面白いどうこうのレベルではなく、脳天を丸太で殴られたような衝撃を受け、生まれて初めて自分より若い才能に嫉妬し、いや、すっかりひれ伏してしまい、二度と映画を撮りたいなどとは思うまいと思ったのだった。
それから何度か若い知人と映画館に見に行って、家でビデオを繰り返し見るうちに、大変な映画であることに間違いはないが、若いからしょうがないけど、なにもこんなに力み返らなくてもな、とか、カッコつけ過ぎだろとか思うようになって、最初の衝撃も薄れていった。
しかし。10年ぶりに見る「汚れた血」は、驚いたことに鮮度が増していた。多分、わたしが歳を重ねて、作家の野心などという卑しい気持ちが薄れ(なくなったわけではないが)、対象に対して冷静に接することが出来るようになったからだろう。
衛星劇場で「男はつらいよ」シリーズの連続放映が始まり、それにあわせて、関係者へのインタヴューをまとめた「寅さんスペシャル」なるものも流されているが、その中で、寅さんの妹役を演じた倍賞千恵子さんが、「渥美(清)さんには、贅肉がない」という、監督の山田洋次による渥美評を語っていた。
もちろん、痩せていたという意味ではなく、演技に無駄や余計がないという意味で、これは、渥美清だけでなく、高倉健さんも、そして、「汚れた血」の監督、レオス・カラックスも無駄なことはしないのだ。いや、より正確にいえば、優れた表現(者)は、過剰ささえも無駄・余計と感じさせないで、魅力・特性に変えてしまうのだ。
「汚れた血」の主人公・アレックスは子供の頃、「おしゃべり」と呼ばれていたという。それは、彼がおしゃべりであったからではなく、まったくしゃべらない子供だったから、皮肉をこめてつけられたニックネームなのだ。このセンス!
アレックスの父はギャング一味に関わっていたが、ある日、不可解な死に方をする。ギャング達は、大きな仕事の準備中で、彼がいないとその仕事が出来ない。父は金庫の鍵あけの名人だったのだ。そこで、父の血をひいたアレックスを仲間に引き入れようとする。アレックスは天才的な手わざの持ち主で、街頭でトランプやボールを使って、客に正解の札・球がどこにあるか当てさせる賭けをして、それをメシのタネにしている。
大きな仕事とは、いま世界を恐怖のどん底に陥れている、エイズに似た病気を治す特効薬を盗み出す、というもの。
アレックスは仲間に加わり、盗みを実行するのだが …
というようなストーリーは、この映画にとってはほんのお飾りのようなもので、描かれているのは、台詞でも語られる「疾走する愛」、ただこれだけだ。映画の中で起こることのすべてが、あらゆるカット、俳優の仕種、台詞、色彩、設定の細部、音楽等々、すべてがこの一語に収斂している。例えば、エイズを思わせる病気は、愛のないセックスをすると発病し、そして死に至る。
こんなに明晰で激しい映画は他にあるだろうか。
アレックスが愛してしまう女性は、名優ミシェル・ピッコリ演じるギャングのボスの女で、当然、叶わぬ恋だが、それがゆえに愛は疾走するのだ。また、アレックスに恋する若い女の子がいて、彼女はバイクでアレックスを追いかける、まさに疾走する愛を地でいく女の子。
このふたりの女性を演じるのがジュリエット・ビノシュとジュリー・デルピー。ふたりとも凄絶というほかない美女・美少女。
異様に肌が白く、それが死者を思わせ、凄絶という形容はそこから来るのだが、疾走する愛とは死への過度な傾斜なのだから、彼女達の肌の白さは、この映画のなくてはならぬ要件として機能している。ボスと彼の同僚の年老いたその裸体の醜さも同様である。死につつあるモノにしか見えない。
この映画を知る誰もが語る、まさに「疾走する愛」そのものといった、デビット・ボーイの「モダン・ラブ」をバックにアレックスが踊るシーン、あるいは、空高く舞い上がった落下傘での女(失神している)とアレックスの長い抱擁、その他の素晴らしさは、わたしの筆の及ばぬところで、見ていただく他ない。とりわけ、映画を作りたい、小説を書きたい、などと思っている若い人は、この映画に触れて、自分がいかに凡庸なものであるかを確認していただきたい。ま、余計なお世話ですが。
26歳にしてこんな映画を撮ってしまったレオス・カラックスは、その後、「ポンヌフの恋人」「ポーラX」、そして、東京を題材にした短編を撮って、いまは長い沈黙の中にいる。いまは50台半ばか。もう映画は撮らないのかな?
天才の不幸を思わずにいられない。よかった、凡才で。贅肉に悩むわたしは、いまだに作家活動を続けられている。