「某日茫話」 今日も雨降り2014.09.05
3日、大阪で記者会見。10月23日から始まるA級Mの公演は、リスペクト・フォー・マスターズという、ちょっと気恥ずかしい冠(?)が乗っかっていて、同じ冠を被った「空の駅舎」公演と併せての会見。先攻の「空の‥」チームの話が長く、眠くなる。
30分過ぎてようやく攻守交替。
「表現にアクチュアリティを求めるのは当然のことだが、演劇のアクチュアリティは、舞台に立つ俳優の身体(性)にその有無を求めるべきだと思う。劇作家が戯曲にそれを求めすぎると、作品の視野を狭めてしまう。見る側も同様で、物語やテーマ(のアクチュアリティ)ばかりを追いかけると、肝心なもの(=劇に触れる醍醐味)をとり逃してしまうのではないか。今回のわたしの戯曲も、これまでのわたしの作品と同様、今日的テーマなどというものはなく、「アメリカの友人」という映画を下敷きにして、映画「麦秋」の一場面の引用やら、吉本新喜劇や「男はつらいよ」のテイストを散りばめたもので、最初は背中を向け合っていたふたりが、ちょっとしたキッカケから自らの体を張って互いを危機から救い出そうとする、そんなお話です」というような、愛想のない話を手短に述べる。
終わって、土橋くんと会見場近くの飲み屋で酒を飲みながら雑談。ともにビョーキを抱える「空 …」組の二人に比べ、わたしたちはケンコー過ぎて、なんだか申し訳ないね、などと。
家に帰って、「悪魔に委ねよ」をパラパラと読む。60頁強ある「某日茫話」と題された日記が圧巻。1972年から76年まで、雑誌「公評」に連載されたものだ。登場する人物の質量が凄い。わたしの名も一度だけ記されている。
多彩な同業者たちとの交遊を軸に、シナリオとの苦闘、鈴木清順氏の映画が実現に至らない苛立ち、映画(界)に向けられら激しい呪詛等が大半を占めるが、途中からまだ生まれたばかりの暁くんへとそれに伴う生活の先行きの心配が多くなる。
某月某日
二日酔い。暁と遊ぶ。昼、ソーメンを食べながら妻は財布の底がついたと云う。ここ三月というもの、収入が完全にト絶えている。日活の脚本代の残りがたとえ入っても、あらかた借金の払いで消えるそうだ。どうするったって仕様がねえだろ、なあギョギョ、と暁に云えば、暁ははしゃいで笑う。どうもこれが辛い。(後略)
これは73年6月号に掲載されたものだが、この年と前年の72年には、ともに大和屋さんの手になるシナリオが4本映画化されているのだが、にもかかわらずこの生活苦。泣ける。そう、この頃はよくわたし(達)がお宅にお邪魔していて、その度に、料理上手な奥さんの手料理がテーブルいっぱいに並べられた。あのお金はどこから? と考えると、今更ながら心が痛む。
更に。これまでも何度かこのブログでも書いたように、前述の暁くんは、いまや世界のナンバー・ワンホースであるジャスタウェイの馬主。この馬の獲得賞金を40年遡って、この時の大和屋さんのもとに振り込むことが出来たら、こんな生活苦に悩みこともなく、それどころか、映画だって何本も撮れるだろうに、と考えると ‥。なんとかならんか?
大和屋さんが突出した知性と才能の持ち主であったことは、この映画論集が明らかにしているが、残念ながら日本映画界には、彼の知性と才能を正当に受け止める土壌がなかったのだ。
監督作品わずか5本。映画化、ドラマ化されたシナリオは、信じられぬほどに多岐かつ多量だが、その大半は氏の本意の仕事とは思われず、しかし、その出来がまた上々だから便利に使われ、結果として監督の仕事を遠ざけ、それがストレスになって命を縮めてしまったように思われる。有り余る才能が裏目に出たのだ。無能の輩が我が物顔でのし歩く現状を思えば、氏の不遇(としか言えない)が更に口惜しく、腹立たしい。
4日。卒業生のイノウエ・サトー来宅。ふたりとも結婚して姓は変わったのだが。イノウエさんは一歳と少しになる男の子を同伴。子供の写真を見せられ、可愛いでしょ、と言われると対応に困るが、ナマ子供はやっぱり可愛い。人間に限らず、動物のこどもはみんな可愛いが、それは生きていくための必須の条件だ。可愛いからこそ親は、あるいは周囲も、この子を守り育てねばと強く思うのだ。世界で一番不幸なのは、わが子を可愛いと思えぬ親と、そして、可愛いと思われないこどもだ。
わたしは子供を持ったことがないからよくは分からないが、子育てが大変なのは想像できる。特に小さい頃の行動の大半は、想定外のことばかりだろう。思うようにはならないから、子を放り出す親も出てくるのだ。それも分かる。
イノウエさんは、わたしが大学で教えた学生の中では突出した才能の持ち主だ。子育ての苦闘を乗り越えれば、書くものがまた変わるかも知れない。それを期待する。
ソウスケくんと言ったか。目を見張るほどの食欲。うっかりすると、わたし達まで食べてしまいそうな凄まじい食いっぷり。聞けば、朝ごはんの量がわたしのそれとほとんど変わらないらしい! 大いに結構。食って食って食いまくり、早く大きくなってお母さんに執筆の時間を与えてやってくれたまえ。