竹内銃一郎のキノG語録

西川美和の映画にテッテ的に欠けているもの2010.08.16

公演が終わって、やっと夏休み。と言っても、夏休み中、学内で活動している専攻学生の管理監督のために、教員が交代で学校に顔を出さなければならず、いまはこれ、研究室のパソコンで書いてます。
何年か前、夏の甲子園中継を見ていて、「あれ? 俺は50年ほど前から毎年、夏はこうして高校野球を見てるんじゃないか?」と気づいて少し感動した。この半世紀、わたしは「平日の昼間から家でゴロゴロ」が許される生活を、ずっとしてきたのだ。もっとも、小学生の頃はラジオを聴いていたのだけれど。うん? 家にテレビが来たのは、わたしが小学5年のとき。それ以前からわたしは高校野球の実況中継を? どれだけ野球好きなんだ!!
暑さで寝苦しいのと、やはり寄る年波のせいか、何時に寝ても朝は7時ころに目が覚めてしまう。高校野球の中継が始まるまで、ハードディスクにある未見の映画を見るのがこのところの日課になってる。
「ディア・ドクター」を撮った西川美和の映画は「ゆれる」を見ている。映画を撮っている専攻の学生に「どんな映画が好きなのか」と聞いたら、「ゆれる」だというので見たのだが。くそ詰まらない映画。後日、その学生に、「あれより面白い映画は、少なく見積もっても1万本はある」と嫌味を言ったのだったが。
「ゆれる」は<文学趣味>の無意味に暗い映画だったが、「ディア・ドクター」も同様の印象。無医村だった村にやってきた偽医者が主人公で、多分、実際にあった話をベースにしていると思われる。が、映画が始まって10分も経たないうちにイライラしてくる。村人の扱いがゾンザイなのだ。時々挿入される田園風景も同様。
扱いがゾンザイってどういうことかと言うと、村人は常に「群れ」として扱われ、個々の顔がないというのか、奪われてしまっているというのか。ジョン・フォードや、改めて書こうと思っているダグラス・サークの映画に登場する、いわゆる「その他大勢」には、ひとりひとりちゃんと顔があって、ストーリーがどうの、テーマがどうのとは別に、わたし(たち)はスクリーンに映し出されるそんな「いろんな顔」に感動してしまう。西川さんの映画にはそれがない。主役の鶴瓶もテレビでおなじみの顔でこなしているだけだ。映画的感性が徹底的に欠けてる映画。プロットをただ絵にしてみましたという映画。だから、ストーリーを聞けばもう実際に見る必要はないと思える 映画。前述のダグラス・サークなら30秒ですますであろうところを10分もかけて撮ってる古臭い映画。
寺山修司脚本、篠田正浩監督の映画を3本。ふたりとも多分20台だったことを差し引いても、さしたる才能も感じさせない映画。とりわけ、「夕陽に光る俺の顔」は、殺し屋を主人公にした歌入り喜劇だが、そのダサイこと!
殺し屋たちのキャラクターがとにかくダサイのだ。どうせおふざけ映画なのだから、「七人の侍」のパロディでもやったらいいのに。拳銃の撃ち合いも映画になってません。アクションの出来ない川津佑介なんか主役にしちゃダメに決まってる。決めてるつもりの台詞もぜんぜん決まってません。
3本の中では、エリア・カザンの「波止場」を下敷きにしていると思われる「涙を獅子のたてがみに」は、なかなかの力作。主役の藤木孝がいい、というか、変! カッコいいんだけど、変! なにかというとクネクネします。 ヒロインの加賀まりこもびっくりするくらい可愛い!
最後に、久しぶりに見たウォン・カーウァイの「欲望の翼」。初めて見たのはもう十年以上も前。あんまりカッコよくてびっくりしたが。やっぱりカッコよくて、ちょっと安心。
詳細は省きますが、夜のパトロールをしている警官が、男に振られて傷心の女に、自分でよければいつでも話を聞いてやる、自分に連絡したければ、この時間にはいつもそこの公衆電話の前にいるから、そこに電話をと語るくだり。最初見たときに泣いて、今度も、泣きはしなかったけれど、グッときました。男は孤独なんです。 一時期は傑作を連発していたウォンさん。最近噂を聞かないけれど、どうしてるんだろう?
カッコいい映画を作るひとは寿命が短いのかも。例えば? P・スタージェスとか?

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