未知の言葉が魅せる、スペクタクル! 「八百万石に挑む男」を見る。2017.10.03
あらゆる国の言葉(……)は、その意味とか抽象的な構造性においてではなくその物質性において、発声の面といった言語の肉体性において、わたしを強く惹きつけます。
上記の文章は、「ユリイカ 蓮実重彦」に収められた、ジャン=ピエール・リモザンの「決定的瞬間の数々」の中で引用されている、雑誌「海」で蓮実と対談したロラン・バルトが語った言葉であるが、昨日、東映チャンネルで放映された「八百万石に挑む男」(1961年公開)で、まさに「言葉の物質性、肉体性」を感じさせる台詞を聴いた。わたしをして唸らしめたのは、御大・市川右太衛門である。
「八百万石~」は、徳川八代将軍吉宗のご落胤を名乗る天一坊の話で、御大が演じるのは、天一坊を前面に押し出して徳川の天下をひっくり返そうとする策士・山内伊賀之亮。「言葉の物質性、肉体性」をまざまざと実感させられたのはこの映画のクライマックス、天一坊とともに江戸の屋敷で、彼が老中松平伊豆守、奉行大岡越前と対面する場面である。天一坊は本当に吉宗のご落胤なのかどうかをめぐって、両者丁々発止と議論を戦わすのだが、そこで交わされている言葉はもちろん日本語なのだが、ほとんどが今まで耳にしたことのない意味不明な言葉、にもかかわらず、御大が発する言葉の語調やらリズムやらスピード感やらがもたらす心地よさは至上のもので、誇張ではなく、わたしは陶然となってしまった。
ロラン・バルトは、冒頭に記した言葉に続けて、次のように語っている。
日本に行ったときは、これはもう、完璧なる非浸透性というか、まったく日本語の中には入りこめない、それでいて日本語が話されるのを聞くことに、多大の喜びをも憶えたのです。というのは、自分が理解できない言葉との接触によって、その肉体性が感知できたからです。ありとあらゆる情動性とか、リズムとか息吹といったものを感知できたからです。だから、そこで過ごした毎日が、まるで途方もなく美しく、手に汗をにぎるようなスペクタクルを見ているかのごとく楽しかった。
未知の言葉がもたらすスペクタクルか。う~ん。「竹内集成」もそうなればいいんだけどねえ。