「花ノ紋」解題 あたま山心中 散ル、散ル、満チル②2017.11.11
plot
3)ミチルは「あの頃の母」に戻って、息子の芝居の衣装を縫い上げようとしている。そこへ、両端が輪になったロープを手にして、<兄>が現れる。ミチルは、彼を引っ越し屋かなにかと思っていて、<兄>であることに気づかない。母(ミチル)は、「まあ、お茶もお出ししないで」と立ち上がる。と、失禁していて足元の床が濡れている。それに気づいた<兄>は、「ああ、雨が降ってきましたね」と去る。母は、夫が心中をした場所に出かけた時にも雨が降っていたことを思い出す。<兄>は雑巾を手にして戻り、濡れた床を拭く。と、母はそんな<兄>を「帰って来るなりお掃除なんかして。罪滅ぼしのつもり?」となじる。彼を夫だと思っているのだ。<兄>はためらうことなく、母の妄想にあわせて<父>になり、詫びの言葉を繰り返す。<兄>は思い切って、「タダシは元気か?」と聞いてみる。「あなたと同じで家には帰ってきませんよ、仕事で札幌に行ったっきり」と答えた母は、なにか探している様子。チケットなら僕が持ってると<兄>が言うと、「チケット?」「僕らは青い鳥を探しに出かけるんだろ」。この言葉をきっかけに、何度目かの劇中劇が始まるが、ミチルは「こんなことしちゃいられない」と鞄の中に傍らにあるものを手早く入れ始め、食べ残しのパンを食べない<兄>をなじり、そして再び、あの日の夫との最後の会話を思い出す。<兄>はもういいとミチルを抱きしめ。「離して、わたし、帰らなきゃいけないの」「どこへ?」「お山。わたしが帰るのを待ってるの」「誰が?」「神様が」 …。ミチルはあたま山に帰るのだと言い、兄はそれに応えて、あそこに近道があるよと、桜の木の枝に渡されたロープの輪っかを指さす。そして ……
4)桜の木にとりつけられた電飾がキラキラと点滅している。その下で、<兄>が鳥籠の修理をしている。女性の看護師が現れ、夕ご飯の時間だと告げる。ここは老後施設だ。<兄>はこれ(鳥籠)を明日持って行かなきゃいけないから、今夜中に直さないと、と答える。看護師がわたしも一緒に行きたいなというと、兄はダメだと答え、看護師が誰かと一緒に行くんでしょ、誰と? と聞き、「ミチルさん?」とさらに質問する。しかし、<兄>はその名を容易に思い出すことが出来ない。思いつくままに脳裏に浮かぶ単語を並べてみるが …。桜の木にすがりつき、あのロープの輪っかから、ミチル(母)とふたりで覗いた幻の光景を思い出して、泣く。 (おしまい)
各篇一回というつもりだったが、2回になってしまった(フー)。物語を手短に、というのは難しい。とりわけこの戯曲は、あれこれと手がこんでいて、手に負えない。いまだったらもっとシンプルな話にまとめるだろう。もちろん、どっちがいいのか、それは分からない。これが書かれたいきさつについては、このブログの2016.02.16に「あたま山心中の思い出」というタイトルで書いているので、興味をお持ちになったらこちらも。
これを書くためにまた読み直したら、なんだか不思議な不安な思いにとらわれた。息子は母の介護に疲れたのと、不安定な精神状態に振り回されている母を哀れに思い、それで彼女を殺して自分も死のうと、睡眠薬を飲ませて眠らせガス中毒で、とか、ネクタイで首を絞めて、とか、あれこれ試みるのだが、そういう彼が、例の「9つの遺体事件」の加害者及び被害者に重なるように感じられ …。
が、それにしても! まあ、昨今の物忘れの激しいこと。「あたま山」の正しいタイトル表記さえ間違えていて、さっき前回分を慌てて修正。まあ、考えてみれば無理もない。わたしもいつの間にか、認知症のミチル(母)の設定年齢を越えているのだ! 以下は先に触れたブログの一部。
世間的には(?)、わたしは「男」の「暴力」を描く「不条理」の作家などと評されているが、そういう「定義」をなさる御仁は、おそらく、この種の戯曲をすっ飛ばしているのだろう。まあ、この戯曲もナンセンス・テイストが多分に含まれてはいるけれど。