竹内銃一郎のキノG語録

まさにチェーホフ流‼  明日が初日の「チェーホフ流」解題9  2018.01.11

明日はいよいよ初日。今年に入って、出演者のひとり岩田さんがA型インフルにかかるというアクシデントが発生。本番には出られそうだと彼女は言ったのだが、ラストスパートがかけられないのはなんとも痛く、それで申し訳ないけれど彼女には降板してもらい、代わりに第5回目の「タニマラ(さびしい風)」に出演が決まっていた前畠さんにお願いし、出てもらうことにする。いわゆるフツーのお芝居だったらこういう選択はしなかっただろう。一か月以上稽古して、最後の一週間の稽古に出られないのはかなりのダメージだが、それまでの積み重ねでなんとかしのげる。新メンバーに本番まで一週間で台詞を覚えてもらうのは、いかにも過酷だし。でも、今回は台詞を覚える必要のない、いわゆるリーディング公演に近いものだから、そこらへんの融通はきくのだ。まあ、細かな動きの指示があるので、それに対応するのは結構大変かと思うのだが。しかし、出演者の交代が他のメンバーに緊張感と刺激を与えて、まずは上々の出来となっている。ぜひご来場いただきたいのですが、うーん、週末の天気が …

「オカリナ~」には、「わたしたちののぞむものは」という副題がついている。前回触れた「ドラボノ介無頼控」の先に書かれているのは、いまの若い人たちは、「わたしたち」という言葉にリアリティを感じられないのではないか、そこがわたし(たち)の二十歳の時代との大きな違いで、だからこそあえてこのサブタイトルをつけたのだ、みたいなことが書かれている。そしていまはさらに、「わたしたち」のでなく「わたしののぞむもの」がなんなのかを明快に語ることさえ困難になっている時代になってしまっているのではないか、と。これまでも何度か同様のことを書いてきたが、繰り返そう、わたしたちが若かった頃は、その頃の映像などを見ると、悲愴な面持ちで反・権力的なシュプレヒコールなどしているが、いまの若い人たちに比べればずっと楽ちんでいられたのだ。

今回の上演台本では、「オカリナ~」原本では劇の冒頭に置かれていた「ワーニャ伯父さん」のラストの台詞が、岡林信康の「私たちののぞむものは」の歌詞に代わって群読される。切々とではなく、小学生の朗読みたいに元気に声を張って読む。これが実に切なく、このシーンに連続して、「ワーニカ」が置かれているので、さらに切なさが増幅される。

「ワーニカ」は、「ランドルト環」(MODE公演でのタイトルは「あなたに会ったことがある・4」)に収められた幾つかある短編の一本だが、その「ランドルト環」については、このブログで、2015年の7月から12月3日まで、断続的にあれこれ5回書いている。最初の7月13日には、浦雅春氏の「チェーホフ」(岩波新書)の中にある、チェーホフが知人に宛てた手紙の一部が引用されている。

私たちには手近な目標も、遠い目標もありません。心のなかは玉でも転がせそうなほど空っぽです。私たちには政治もない、革命も信じない、神もなければ幽霊も怖くない。私などは死も盲目も怖くない。何も欲せず、何ひとつ希望も持たず、怖いものなど何もない人間が芸術家になれるはずがない。これが病気であるのかないのか、そんな呼び名はどうでもいいのですが …

おっとっと。先にわたしが書いた、いまの若者たちが置かれたこの国の状況とまったく同じことが …! いや、これはさっき判明したことで、これをここで引用するためにマエ振りしたわけじゃないのです。というか、わたしの世界認識がいかにチェーホフの影響下にあるかという、これは証明でもあるわけですが。

竹内、まさにチェーホフ流。来るかなあ、お客さん。とまあ、ワタクシ的には<手近な目標>はあるのですが。

 

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