泣いた、笑った。アキ・カウリスマキの「希望のかなた」を見る。2018.01.25
久しぶりの映画館、久しぶりのカウリスマキ。期待にたがわぬ傑作。唐突に演奏シーンが入るのは彼の映画では毎度お馴染みで、流れる曲が皆ラ・スンバラシータなのも毎度のことだが、「音楽か 死か 音楽がすべて 理由などない」と歌う歌手と曲が亡くなったエンケン氏を忍ばせて、ガガっと落涙してしまった。
戦時下のシリアからフィンランドのヘルシンキにやってきた青年と、アル中(?)の妻と別れ、服飾関係の仕事もやめて、新しい人生を歩まんとする推定年齢69歳の大柄なおっさんと、ふたりの話が並行して語られるファミ・プロスタイル。シリアの青年は難民申請を拒否され国外退去を命じられるが、シリアからトルコ・ギリシャを経由してヨーロッパに入ったところではぐれてしまった妹をなんとか探し出し、一緒にヘルシンキで住みたいと考えている彼は、黙ってシリアに帰るわけにはいかない、それで、警察が来る前に収容所を逃亡し …。一方、大柄なフィンランド人のおっさんは、扱っていた商品を叩き売って得たお金を持ってカジノへ行きポーカーで大勝ち、その金を元手にやりたかったレストラン経営に乗り出すが …。こういうふたりが、おっさんのレストランのごみ置き場で出会うのである。そして …。
相変わらず飾りっ気のない映像と、それに歩調を合わせたように不愛想な出演者たち。にもかかわらず笑えて泣けて。それはまるで、速球と変化球を同じフォームで投げるオリックスのエース・金子のピッチングのよう。この国のTVは局を問わず時間を問わずどいつもこいつも、額に虚飾の二文字を描いたような笑顔のテンコ盛り、そういうイカレポンチな現状だから余計にカウリマキの映画は新鮮に見える。無慈悲な公権力と、それに後押しされているかのように、難民(志望者)と見れば誰かれ構わず暴力を振るうクズ野郎たちが無表情なのは当然として、その対極にある、主人公のシリア人を支援する心優しき人々も同じように無表情で、それが笑いを誘うのだ。とりわけ、もうひとりの主人公である大柄なおっさんのレストランで働く三人組が。最高の物件とレストランを紹介したインチキ不動産屋には、腕利きと紹介された彼らだが、実に誠に仕事が出来ず。そんな、いろんな意味で下流の下流を生きる彼らが連発する吉本新喜劇並みのベタなギャグの連発! それが笑わせて泣かせるのだ。
驚いたことに、平日のお昼だというのに、しかも、難民問題という面倒な(地味な?)テーマを抱える不愛想の極というべき映画なのに、京都シネマの客席はほぼ満席で、観客の推定平均年齢は65歳。にもかかわらず、ここというところでは必ず笑いが渦巻くセンスのよさ。ああ、まさに、希望のかなたここにあり。