竹内銃一郎のキノG語録

重要なのは、結果・結論ではなく過程である。 「タニマラ」メモ⑤2018.03.29

またもやの間違い、訂正。前回、「タニマラ」で上演する「かごの鳥」は、劇半ば部分を15分抜き出して、と書いたが、実際は、プロローグに続くS2、原本(!)では20数分あるところを15分ほどに圧縮してお見せします。すでに訂正しましたが、いやあ、なんともかともスミマセン。

さて、本題。「かごの鳥」は実にシンプルな筋立てになっている。拉致監禁されたふたりの乙女(自称)は、いかにして脱出するか、いかにして拉致監禁の犯人を探り出すのか。これが本作の二本柱で、詰まるところ、手を変え品を変えて脱出を試みつつ、犯人の割り出しに知恵を絞りつつ、物語は進行するのだが …。書いている時には気づかなかったが、30年経って、ああ、こういうことだったのかと気づいたことがある。もしかしたら、物語の基本設定を考えた別所さんは、最初から「そのつもり」で書いていたのかも知れないけれど。

ふたりは脱出すべく、まずははっぱの兄宛にSOSの手紙を書いて、それをカナリアに託すのだが、無残な結果に。次には、監禁場所にあった布切れで紐を編み、それを使って窓の下を流れる川を渡ろうとするのだが、これも紐が切れて未遂に終わり、三度目はガラス製の小瓶に再度手紙を入れて、それを川に流すのだがこれまた岩に当たって粉々に、という具合に失敗を繰り返すのだが、最初のカナリアは、ペンが亡くなった母親の生まれ変わりだと言う意味で「お母様」と呼ばれ、あえなく切れてしまった紐は、はっぱがその編み方を和歌山の「おばあちゃん」に伝授されたもので、三度目のガラスの小瓶は、ペンが母親の姉、彼女の「叔母様」から貰ったものだった。つまり、助けを肉親に求めるも、結果的に、彼女たちは拒絶されるのである。そして、あえてネタバラシをしてしまえば、彼女たちを拉致監禁した「おじさん」は、ふたりが最後の<頼みの綱>だと思っていた「はっぱの兄」であることが判明するとともに、物語は終わるのである。これを、家族との絆を断ち切って自立を目指す女性の物語と読むか、それとも、悪夢のような孤独の物語と受け止めるか。言うまでもなく、それは見るひと・読むひとの自由である。さらには、はっぱの兄がなぜこんなことをしたのか。単なる悪戯か、それともふたりになにか恨みでもあったのか。思わせぶりに、理由・原因とも受け取れそうな事柄がときどき見え隠れするが、はっきりと明らかにされることはない。これもまた見るひと・読むひとの自由である。というか、先にも書いたように、これは、監禁状態から抜け出すために、ふたりがあの手この手を尽くすところが見せ場であって、犯人=兄の心づもりなど二の次三の次なのだ。別の角度から言えば、重要なのは、結果・結論・結末を明示するところにはなく、そこに至るまでの過程をいかに面白おかしく見せるかなのだ。

わたしがいちばん好きなのは次なる箇所だ。三度の失敗の後、はっぱは、これぞ最後の手段とばかり驚くような脱出方法を明らかにする。彼女は、兄とともに「魚類研究所」を設立し、水槽で飼っている魚たちを使って<音による条件反射>を研究しているのだが、自称・女ターザンの彼女がひと声叫べば、それを聴きつけた魚たちが群れをなして助けに来てくれる、というのである。こんな笑えて悲しいネタを考えたのは別所さん。大したものだと、いまさらながら感嘆の声をあげるわたしである。

 

 

一覧