今回で閉店ガラガラです。 「動植綵絵」メモ⑭2018.05.24
ああ、明日は連続上演最後の初日。と言っても、さしたる感慨はない。もしかしたら、約40年間にわたる(途中5年ほどの空白アリ)わたしの<演劇生活>の、これが最後になるかも知れないのに、である。なんてクールなんだ、わたしは。
昨日は最後の稽古。当初は、一時間ほど気になる箇所を確認し、そのあと通し稽古に入る予定だったが、時間切れで最後までたどりつけず。通しの前の小返しで何度もストップをかけて、いわゆる<ダメだし>を延々したからだ。そこまで言う? と自分でも思うほど相当きつい言葉で。相手が俳優としてのキャリアわずかな若いひとなら、あんなには言わなかったろう。しかし、今度の公演の主力メンバーである、保、武田、水沼とは、20年来の付き合いで、何度も竹内演出の舞台に出てもらっている、キャリア30年を超えるベテランである。そんな彼らに厳しい注文をつける演出家など、もはや他にはいなかろうという親心から(?)、きみたちがこれからも長く演劇に関わりたいという思いがあるのならと前置きをして、古典的とも言えよう<演技の基本>について、ああだこうだと語り続けたのだった。今回の公演パンフに書いたこと、つまり、せりふを<競り符>たらしめるためには<呼吸の意識>が前提なのにきみたちは …、というような。呼吸を意識しコントロールすることが、自らの身体を意識するもっとも分かりやすい第一歩で、これは古典芸能も現代演劇も、いや、音楽やダンス、武道等も含め、古今東西共通の基本・原理のはずですが。
わたしの多くの戯曲は、外部からの侵入者によって、とりあえずの安寧を保っていた人々が混乱状態に追い込まれるものであることは、以前にも書いた。むろん、これはわたしの専売特許ではなく、チェーホフの四大戯曲はいずれも同様な仕組みになっている。「ラメラ」はその中でも特異な作品だ。混乱を引き起こす張本人、主役ともいうべきラメラは、一度もその姿を見せないからである。千羽鶴グループのいたいけな彼らは、見えないモノに翻弄されるのだ。しかし、前回にも書いたように、それは彼らが心の底では望んでいたことなのではないか、「翻弄=自己の更新の促し」として。こう書いてすぐに頭に浮かぶのは、わたしの好きな戯曲のひとつ、別役実さんの「マッチ売りの少女」である。
ある夜、長くふたりきりの生活を続けている老夫婦の家を、若い女性が訪れる。夫婦は久しぶりの客である彼女を歓待するのだが、言葉を交わしているうちに、彼女は驚くべきことを語りだす。自分は七歳のころに、マッチを売っていた、マッチに火が灯っている間 …と言い、そして、あんな(猥褻な)ことをわたしにやらせたのは、あなたですか? と男に問い、当然のように否定する彼に、彼女は、「わたしはあなたの娘です」と迫る。そして …。彼女が語っていることのどこまでが真実でそうでないのかは、分からない、事実関係などどうでもよろしい。なぜ彼女がこの家を訪れたのかと言えば、遠い昔に娘を失って以来、ずっと続いているふたりきりの生活が寂しく辛く、だから彼らの潜在的願望、即ち、娘がいてくれたらという思いが、彼女を呼び寄せたのだ。これで充分。
千羽鶴グループの中でただひとり、主宰者であるヒトミだけがラメラ化されない。しかし、長い間、うまく言葉に出来ない、言い知れぬ孤立感に悩まされていた彼女は、周囲のラメラ化によって、自らの孤立の<素>を発見することになる。そして、「明け方の夢、夢の明け方」と名付けられたエピローグ。千羽鶴グループ・メンバー及びその周辺にいた人々は皆一緒に、手作りのいかだに乗り込み、メコン川から海に出て、水平線まで行きついたら、そこからは空へ・宇宙へ、という長い長い果てしのない航海へと出発する。今にして思えば、この劇は、若い学生たちに送る励ましのメッセージだったのだろう。いや、送り先はわたし自身だったのかも?
とにかく、人生は長旅で、しかし、終わる時は「えっ?」と驚く間もなく終わるのである、多分。