竹内銃一郎のキノG語録

「ラメラ」はわたしを更新してくれる。  「動植綵絵」メモ⑬2018.05.22

腰本ヒトミ・ヒフミ 成毛ヒジリ 田口ノドカ 来伏(くるぶし)マユ 安郷(あごう)ナツメ 額賀ミミ 丹野ハナ 平手モモ 伊調ハツオ 足柄ショウジ カルビ

上記は「ラメラ」の登場人物名を列挙したものですが、お気づきのように(?)、どれにも身体の一部分名が刻まれています。名字だけでなく名前にも、ヒトミは瞳、ヒフミは皮膚身、ヒジリは肘リ、ノドカは喉下、ナツメはナ爪、ハツオのハツは、焼き鳥・焼き肉のハツ(hearts)、という風に。(因みに、丹野のタン(舌)も焼き肉関係ですが、カルビは、軽部なる男の愛称で、これはちょっとイレギュラー?)うん? ショウジは? 小さな痔? 違います。答えはいずれ …

「ラメラ」は、これまでの多くの作品と同様、天の配剤か? と思えるような<偶然>に助けられて作品へと昇華したのでした。前々回に触れたS・ジジェクの「ラカンはこう読め」で触れられるラメラは、ドン・シーゲルが監督した「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」を材料にして語られているのですが、この本を読んだ数日後、それをリメイクした「SF/ボディ・スナッチャー」(監督F・カウフマン)をTVで見たのです。驚きのご対面! 冒頭で、消滅間近となった宇宙の星を脱出して地球に向かう異星人(エイリアン)の動向が語られ、次には、家庭で栽培されている花にゼリー状のものが付着していて、それが花を取り込んで(?)、花そのものになり、その花が今度はその家の住人にとりついて …。次々と人ばかりでなく、生きとし生けるものにとりついて …と、まあ、とんでもなく怖いそれを見て(「顔は人間、首から下は犬」の登場には笑いますが)、これはいけると確かな手ごたえを。いかにもSFチックなタイトル「ラメラ」も、「ゴジラ」みたいで「グーッ!」ではないか、と。

その時点で劇団員だった学生たちへのあてがきが前提となっていたので、まず、若いひと達のグループの話をと考え、次に、それはどんなグループかと考えた時、これもその頃に見た映画「包帯クラブ」がヒントになって。悲惨な境遇に置かれている人々のために、そのひとがもっとも辛いと感じた場所のモノ(鉄棒とか)に包帯を巻いてやる、高校生グループの話ではなかったか、と。それをベースに、日々の暮らしを耐えがたく思っている人々のために、千羽鶴を折って送るボランティア・グループの話にし、そんな健気な彼らを、おそらく健気であるがゆえにラメラが襲い、次々と彼らは<更新>されていく、という話を作り上げる。ラメラ=エイリアンに襲われると、今日のわたしは昨日のわたしとは違う、別人格の人間になってしまう。「ボディスナッチャー」を含むこの種の映画のほとんどは、その強いられる<変身>の否定を前提に作られていますが、わたしの「ラメラ」は、その<変身>を更新ととらえ、新しい<わたし>の出現を肯定・歓迎していて、それがこの作品のキモとなっています。なぜそう考えたのか。

ひとは誰も、若いころは特に、自らへの異和・不安を抱えていて、その異和・不安は、目に見え、接触も可能な自らの身体に向けられるはずです。程度の差はあれ、ひとが自らの見た目に拘るのは、他人の目を気にしているからというより、化粧等によって自分でない他の誰かへと変身・更新し、異和・不安を抱える自分から自由になりたいからではないか。登場人物名に身体の一部が刻み込まれているのは、自らの身体との桎梏の可視化です。と考えるわたしは、変ですか?

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