悲劇と喜劇は紙一重の違いしか …2018.06.23
20日・夜。ほとんど関心はなかったのだが、風呂から出てTVをつけたら、サッカーのWC、日本VSコロンビア戦がちょうど始まったところで、どうせ負けるんでしょと思っていたら、なんと開始早々に得点。おまけに相手はひとり退場になって、日本は数的有利になったのだが、逆にこれが裏目に出るのでは、と思っていたらやっぱり同点にされ、こりゃ終盤ひっくり返されるな、と思っていたら …。それにしても。サッカーは、試合の半分は休憩という野球と違って、出場選手は45分×2の90分間、GK以外はずっと走りっぱなしで、その間、あと0,5秒走り出しを早くしてたら、足の指先があと1㎝伸ばせば、相手のパスを、ゴールを防ぐことが出来たのに、なんてことが絶え間なく延々続くのだ。天国と地獄の間には紙一重しかないことを実感させるサッカー、実にシリアスなスポーツだ。
18日の大阪北部地震によって亡くなった人々、中でも、倒れてきたブロック塀の下敷きになった小学生など、あと5分早くか遅くかその塀の前を通り過ぎていれば、「わたしの背中スレスレで塀が倒れてきてさ」なんて、周りみんなが喜ぶおいしいネタにもなったはずなのだ。まさに、喜劇と悲劇は紙一重の好例である。黙祷。
上記のような、あれやこれやがあったせいもあるのだが、「チュニジアの歌姫」のデータ化がまったく先に進まない。いまの書式で最終的には60頁くらいになるであろう全体の、五分の一くらいのところで暗礁に乗り上げている。だからまだ話の核心に入る前のところなのだが、こういうなんでもない、いうなれば遊びに近いところこそ隙のない仕上げが必要なのだ。質問に対する答えを考え、いや、そもそも質問の台詞に一考の余地があるのではと考え、いやいや、この部分のやりとりは全部ご破算にした方が …とも考えて、考えあぐねて …。たった一本のスルーパスがゲームの流れを変えてしまうように、戯曲もたったひとつの台詞によって停滞していた劇が活性化するのだが …