この過激な波状攻撃の先にはなにが?!2018.07.05
どうなってんだ、いったい?! 先月18日の驚きの大阪北部地震以来、うだるような暑さの日々が続いたと思ったら、今度はわたしの記憶にないほどの豪雨襲来。どこのどいつだ、この過激な波状攻撃の仕掛け人は?! TV画面が映し出す鴨川の激流、普段の穏やかな流れを見慣れているわたしには、俄かには信じがたい変わりよう暴れよう。実際にこの目で確認したい衝動に駆られているが、降り続く雨がわたしの行く手を阻んでいる。いや、すっかりたるみきった心と体を、いい機会だ、滝のようなこの雨に打たれて鍛え直すべきかもしれない。まさか。
ここに来て、しばらく停滞していた「チュニジアの歌姫」の修正・データ化が一気に加速している。激しい雨風のお陰で涼しくなったせいもあろうが、やはり、中身のせいだろう。物語の核心・本線ともいうべき「第三章 制御できない流れ」に辿り着くまでの、いわば引き込み線にあたる第一章、二章に手間取ったのは、登場人物個々が現在に至るまでの歴史、人間性の裏表、互いの関係(性)等々について、単なる説明に終わらせない、細かな配慮の必要があるからで。しかし、そこをクリアすればゴールが視界に入ってくるし、あとは一気にスピードを上げられるのだ。
内容については簡単に「竹内銃一郎集成」のタニマラ・メモでも触れたが。主人公K(カール・ロスマン)は、映画監督として著名なカール・フレッシュを騙って、かって「世界の歌姫」と呼ばれたマルグリット・ユニックに接近し、当初は夢にも思っていなかった「マルグリットの映画」を撮れるかもしれないと思ったその時、思わぬ事態が発生する。カール・フレッシュが暴漢に撃たれて亡くなるのだ。それを新聞記事で知った、マルグリットの主治医や料理人たちは、当然のように、映画監督でもないお前がチュニスにいる理由はないはずだから、ここから出て行けとKに宣告するが、Kは、「退屈な百の真実より、美しいひとつの嘘を」というラブレーの言葉や、クレーの創作ノートにあった一節「厳密であること、そして、非合法であることを恐れないこと」を持ち出して、彼らに自分の<正当性>を言い募り、さらに、「ぼくはカール・フレッシュの映画が好きだった。自分自身よりも彼の映画の方が、と言いたいくらい好きだった。彼の映画にぼくは何度励まされたか分からない。そういうぼくが、彼の名を騙って映画を撮ることが、どうして許されないんだろう? (中略) だからぼくは、ぼくの好きなマルグリット・ユニックを使って映画を撮るんだ。映画への愛は法律では裁けない」と常識を超える論をはる。これを受けて、マルグリットの「あなたの言うことはよく分かったわ。でも、あなたはひとつ、とんでもない勘違いをしてる。わたしはあなたの映画に出るんじゃないの。このマルグリット・ユニックの映画をあなたが撮るの。分かった?」なんて台詞があり、そう言い放って彼女は自室に戻り、Kとマルグリットの娘・ナディーヌ(N)を残して、他の登場人物たちもその場からいなくなる。はたして。ふたりっきりになった彼らの間でいったい何が語られ、さらには、この章に続く「第四章 死と焔」では事態がどうなり、「エピローグ 快晴」では、登場人物たちのその後はどう語られるのか。
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