竹内銃一郎のキノG語録

風は己の望むところに吹く  ロベール・ブレッソン「抵抗」を見る。2018.07.15

一週間前の豪雨を忘れてしまいそうな、連日の猛暑。いや、甚大な被害を被った方々は忘れたくても忘れることは出来ないだろうけれど。朝は喉の渇きで目覚める。もちろん、暑さのせいだ。いつもならスポーツドリンクを飲んで寝直すのだが、競馬がある土日は一度目覚めると眠りにつくのは難しい。緊張しているからだろう。仕方がないのでTVをつける。昨日の土曜は、録画しておいたブレッソンの「抵抗(レジスタンス) 死刑囚の手記より」(1957年公開)を見て、深い感銘を受ける。(お陰で? 競馬快勝!)

時は第二次世界大戦中。フランス軍中尉がナチスに捕まり、車で刑務所まで護送されるところから物語は始まる。彼は隙あらば車から飛び出そうとドアノブに指をかけつつ運転手の様子を窺っている。車が踏切前で止まった瞬間、ドアを開けて逃げ出すが、後続のナチス軍車から、銃声二発。主人公はすぐに捕まり、再び車に戻される。ここまで数分、一秒たりとも無駄な描写はなく、そして最後までこの冒頭の緊張感が途切れることはない。彼は独房に入れられるが、入れられた時からいかにしたら脱獄は可能かと考え、それを実行する。食事に使うスプーンをコンクリートの床で砥いでナイフ化し、それを入口の木製の扉の木と木の間に差し入れて、木をはがそうとする。3枚はがせば外に出られるという計算だ。

タイトルにもあるように、この映画は死刑を宣告された兵士の手記をもとにしている。彼を相対化する視点はほぼ皆無。劇中で語られる台詞=言葉の8~9割は主人公のモノローグで、こういう極限状況下だから、囚人間で交わされる言葉はいずれも一言二言に制限されている。通常の脱獄ものなら、刑務所の全景、建物の細部、警備体制等々に関する<客観的な>情報を開示して、脱獄がいかに困難であるかを明らかにし、主人公の行く手を阻む障害物=困難をいくつか設定する中で、主人公危機一髪! という瞬間も用意するのが常道だが、それらは一切ない。脱獄の計画から成功まで、それでいいのかと言いたくなるほど、ほぼ一直線の道を進んでいく。しかし、先に記したドアの板外しから、独房にある布やら金網やらを使っての、独房を抜け出した後ふたつの塀を越えるための、頑丈な紐づくりやら、細かな手仕事をまさにミリ単位で描写するのだ。これらが醸し出す息詰まるようなサスペンスは、数多ある、いわゆる<サスペンス物>の比ではない。

主人公を始めとして、出演者はみな新聞記者やら学者、評論家で、いわゆる職業俳優ではないらしい。それがゆえのリアリティ? こういう映画を見ると、俳優に必須なものはなにかということがよく分かる。世界認識とそれを軸にした、作品・作家・演出家の言葉に対する理解力だ。これらの持ち合わせがない<自称俳優>は、たとえ声やルックスがよくて、台詞回しに長けていたところで、底の抜けたバケツ同様、叩けば音は出すが、ほかに使い道はないのだ。

最近はTVのドラマもバラエティーもたまにしか見なくなってしまった。近年ますますわざとらしさが前面に押し出されているようで、それが不快だ。このあいだ録画で見た、関西の若手芸人の大会(名称失念)がその好例。漫才やコントの退屈さもさることながら、実演中に時々挿入される審査員たちのバカ笑い顔が疎ましく。それは、演じる若手芸人への励ましというより、TVカメラの向こうにいる視聴者への媚びへつらい、<サービス笑い>なのだ。タイトルにある「風は ~」は劇中で主人公によって語られる言葉だが、上記の審査を担当した中堅どころの芸人諸君に問いたい、きみたちの望むところは、どこなの? それはなんなの?

 

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