最良の台詞 「チュニジアの歌姫」改訂版データ化完了!2018.07.11
前々回に触れた「チュニジアの歌姫」のデータ化、本日完了。お昼過ぎにツイートもしたのだが、修正・データ化と書き、ツイートした後で、修正というと細々した作業のように思われるのではないかと思い、こちらでは改訂版とする。確かに、修正箇所は比率でいえば原本のせいぜい10%くらいかと思われるが、しかし、その修正によって作品のリズムやエッジの利き方が、自分ではずいぶん変わったように思うのだ。原本に粗さを感じてしまうのは、やはり締切りに追われていたからだろう。あの頃は、筋立て・構成に時間を取られ過ぎて、その凡そが出来たら、台詞はもう勢い・調子で書き殴っていたのだ、多分。むろん、その書き殴りが効果的であったところもあるが、やっぱりいま読み直してみると、単純に無駄が多いのだ。そのいい例が、相手の台詞の反復である。「Kが死んだ」「え、Kが? 嘘だろ」「嘘じゃないんだ」「だって …」「だってももなにもほんとなんだから仕方ないだろ」と言ったような。それから、相手の台詞の受けを「いや」「確かに」「まあ」「しかし」等々のカットしてもほとんど問題のない言葉で始めるとか。こういうのをどんどん削っていくと、やりとりがスリムになって、つくべきところについている筋肉が際立つのである。
前々回の繰り返しになりますが、この作品に興味をお持ちの方は、遠慮なく、本サイト「キノG語録」のREQUESTを経由してご連絡下さい。もちろん、読むだけならば無料です。
先月あたりから拙作の上演許可願いがぽつぽつ届く。その多くは高校演劇部からで、9月に開かれる(らしい)地区大会での上演を予定してのものだ。これまで幾度も書いたように、希望作品の9割は、登場人物が2,3人のもので、それは部員が少ないという事情の反映だろう。拙作が選ばれるのは嬉しいのだが、その演劇部不人気という現状が哀しい。中では、70年代の終わりに書いた「SF大畳談」の上演を希望する高校があったのには驚いた。これは男性5人の芝居で、女性は声だけの出演。男子校なのだろうか? また、これは演劇専攻がある大学からだが、「贋金つくりの日記」の上演希望も届いている。わたしの記憶では、この戯曲が秘法以外で上演されるのは初めてのはず。こういうのは嬉しいというより、ありがたい。まあ、どういう舞台になり、観客がどういう感想をもつかは知らねども。
東京のある演劇研究所からも、拙作の上演希望が届いた。ここでは毎年のようにわたしの戯曲を上演していただいて、それはまことにありがたく嬉しいのだが、選ばれる作品がいつも30年ほど前に書かれたもので、それがわたしには少々痛いのです、という内容の文章を送った。もちろん、上演を拒否はしなかったのだけれど。なぜ痛いのかというと、なんだかわたしが「過去の作家」のように見なされている感があるからだ。多分、今世紀に書かれたわたしの戯曲など、読んでいないのはもちろ、その存在さえ知らないのだろう。相手が先に書いたような、演劇に関する知識が皆無に近い高校生ならまだしも、一応プロを目指し、あるいは育てようとする機関なのだから、わたしの作品に限らず、もう少し視野を広げて演目の選択をすべきではないのか、とも。ま、余計なお世話だということは重々承知しているのだが。
「チュニジアの歌姫」のエピローグ・快晴は、ひとつ台詞を書き加えただけで、とても清々しい終わり方になっている。妊娠しているナディーヌら4人と、亡くなったkとマルグリットは、一緒に写真を撮ることになる。もちろん、生ある4人にはふたりの死者が見えない。カメラを構えるのは、K殺しの容疑で逃亡しているテオ。彼は殺しの現場にいたいた者たちに、わたしがここにいたこと、いや、わたしの存在すら知らないことにしてくれと頼んでその場を去るのだが、偶然、ここで彼らと出会い、カメラを渡される。テオにはカメラのシャッターが押されると同時に目をつむる癖があった。テオがカメラを構えると、かってテオの婚約者だったマリアがナディーヌに「目をつむってはダメですよ」と言うと、ナディーヌは「大丈夫。わたしは誰かさんと違うから」と答え、テオはその言葉に思わず「ギクッ」と言ってしまい、みながその反応に笑い声をあげる。この「ギクッ」が今回付け加えられた最良の台詞である。