奥行きー河野哲也「意識は実在しない」より2014.10.06
凱旋門賞、日本馬惨敗。終わってからならなんでも言えるが、この結果は十分に予想出来た。
マスコミは、もちろん期待を込めてもいるのだろうが、基本的に新聞の売り上げを伸ばすため、視聴率を上げるために、必要以上に「今年こそ」と書き立て騒ぎ立てる。それは先のサッカーWカップでも見られたことだ。冷静に考えれば、今年の3頭は、去年出走したオルフェーブル・キズナより一枚格落ち、というのがわたしの評価だった。
目下世界一にランキングされているジャスタウェイの適性距離は1600~2000で、弱敵相手ならともかく、今回の2400ではこの結果も当然。ゴールドシップは、道中不利があったようだが、20頭が団子状態という展開なら多少の不利はどの馬も受けているはずで、不利をはね返す強さがなければ世界では通用しないということ。走る能力もさることながら、この馬の精神的脆さが出てしまったわけだが、これも戦前のわたしの予想通り。いちばん期待していたハープスター、最高方から直線追い込みという戦法はいくらなんでも無茶苦茶で、鞍上不安というわたしの戦前予想がこれまた的中。騎手の川田は、Wカップの日本選手同様、「自分たちの競馬をしたい」と思ってのことだったのかも知れないが、相手あっての勝負なんだからさ。
あの悪夢のような「死ぬかと思った」事故からはや10日過ぎ。顔の擦り傷のかさぶたもすっかり無くなって元の美しさ(?!)を取り戻したが、アノお陰で生活のリズムがすっかり崩れてしまった。年内に5キロを30分で完走を目標に、毎日コツコツ距離を延ばして走っていたのだが、この10日でスタート地点に逆戻り。ふー。久しぶりに読書。以下は、中断していた河野哲也「意識は実在しない 心・知覚・自由」からの抜書き。
感覚は、「測定する」という行為になぞらえるのが適切である。(中略)感覚とは、感覚器官が設定できる次元性を通して世界を測定する行為である。
何かを見るためには、対象から距離をとらなければならない。私たちが山脈を見るには、ずいぶんと離れなければならないだろう。一定の距離をとること、しかし遠すぎないこと。接触して極微の世界を顕微鏡で覗くのでもなく、対象が点になってしまうほど離れてしまわないこと。これが私たちを取り囲んでいる生態学的環境を知覚するための条件である。(中略)身体は、自ら知覚し、自分で動き回るものであり、自分のまわりにさまざまな物を集めて共に生きている。知覚はこうした物の距離をもった関わり合いのただなかから生起してくる。
知覚を生じさせているものとは運動である。
奥行きというのは、何よりも隠れたものが存在する次元である。隠れたもの、あるいは、潜在的なものは、知覚者が推論したり計算したりするものではなく、知覚された世界に書き込まれている。奥行きは、世界が次に知覚すべきものや、次にすべきことを準備しているという事実を表している次元である。この意味において、あらゆる知覚は予期的であり、予感である。
知覚される物は、その情報の放射によって周囲にいる生物を変容させる。見られることは、知覚者の視線を自分に引きつけ、自分のあり方に知覚者を服従させる点で、きわめて能動的なことである。見るという、一見、能動的な行為は、見られる対象の要請に応えなければならない点で受動的である。(中略)知覚者と知覚される物とは、問いかけと応答のような、どちらが能動的でどちらが受動的とも言えない、循環的で両義的な過程である。
知覚の条件は、自ら動く存在であること、動物であることなのである。
以前にも書いたような気がするが、これ、ほとんど演技・演出・演劇論の本です。