ヒンヤリして気持ちがいい「ドミトリー …」2014.10.09
高野文子の『ドミトリーともきんす』を読む。amazonから送られたきたのは10日ほど前だったが、パラパラと見ただけで今日まで読まずにいた。なぜ? 前回、可愛いと怖いは同義語だと書いたが、まさにそれだ。
可愛いと思う対象には触れたいと思い、触れるために対象に近づかねばならないだが、ある一線を超えることが出来ない。触れたら最後、その時点でなにかが、多分、それへの幻想が壊れてしまうのではないかと思うからだろう。だから、その一線を前にすると、二歩三歩対象から遠ざかってしまう。逆に、怖いに接すると、思わず二歩三歩、対象から距離をとるために後退する。しかし、一方で怖いもの見たさという気持ちも手離せず、じりじりと対象に近づいたりする。つまり、可愛いも怖いも、前進・後退という身体の動きを促すという点で、相似なのだ。
つまり、可愛すぎて触れるのが怖い、だからここまで「ドミトリー」に手に取ることが出来なかったと、こういう話である。
ドミトリーとは、広辞苑を引くと、「寮。宿舎」とあるが、ウィキには、「ドミトリー (dormitory) とは、ユースホステルやゲストハウス・一部の民宿(いわゆる「ユース民宿」)や山小屋などの宿泊施設において、相部屋を前提とした部屋のこと。「眠る(dorm)場所」が原義。」とあった。
事前にネットで、湯川秀樹や朝永振一郎等の著作を紹介したものと知っていたが、まさにそういった、それだけと言っていい内容。きん子ちゃんという子供がいる、とも子さんが寮母をしているドミトリーに、前述した湯川、朝永等(学生)が下宿しているという設定の中で、それぞれの著作の一部を紹介するという趣向。ギャグがあるわけでもなく、もちろん波乱万丈の物語が綴られるわけでもない。にもかかわらず、ワクワクさせられてしまう、この不思議!
あとがきでこんな凄いことを書いている。知り合いの田中さんという編集者から自然科学の本を借りて読んだところ、とても気に入ってしまい、こういう本の紹介を漫画で出来ないかと田中さんに相談したところ、ぜひやりましょうということになり …
まずは、絵を、気持ちを込めずに描くけいこをしました。変に聞こえるかもしれませんが、涼しい風が吹くわけはここにありそうなのです。わたしが漫画を描くときには、まず、自分の気持ちが一番にありました。今回は、それを見えないところに仕舞いました。自分のことから離れて描く、そういう描き方をしてみようと思いました。
本の最初には「球面世界」、あとがきの次には「Tさん(東京在住)は、この夏、盆踊りが、踊りたい」という楽しすぎる短編が添えられていますが、本編の「ドミトリーともきんす」の最後に置かれているのが、「詩の朗読」というタイトルの、湯川秀樹「詩と科学 ー子どもたちのためにー」の紹介。これが凄い。多分、800~1000字の文章を詩のように行わけして文字を書き、その文章に付かず離れずといった感じでコマが散りばめられている。もうこれは、世の中で「漫画」と称されているものとは違うのではないかと思うけれど、しかし、紛れもなくこれは漫画なのだ。卓越した技術と精緻な方法論とで、漫画でしか出来ないことをやっている。湯川の文章がまたいい。
詩と科学は遠いようで近い。近いようで遠い。(中略)出発点が同じだからだ。どちらも自然を見ること聞くことから始まる。バラの香をかぎ、その美しさをたたえる気持ちと、花の形状をしらべようとする気持ちのあいだには、大きなへだたりはない。(中略)詩というものは、気まぐれなものである。ここにあるだろうと思っていっしょうけんめいさがしても詩が見つかるとはかぎらないのである。ごみごみした実験室の片隅で、科学者はときどき思いがけない詩を発見するのである。しろうと目にはちっともおもしろくない数式の中に、専門家は目に見える花よりもずっとずっと美しい自然の姿をありありとみとめるのである。(中略)どちらの道でもずっと先の方までたどって行きさえすれば、だんだんちかよってくるのではなかろうか。そればかりではない。二つの道はときどき思いがけなく交差することさえあるのである。
こんな優しく易しい、けれど格調高い文章と「涼しい風が吹いている」ようなタッチの絵が頁の中で溶け合っているのだ。感動しないはずがない。