竹内銃一郎のキノG語録

帷子耀? あの?! 2018.10.02

四条河原町までお散歩。当初は、ジュンク堂で「野球太郎」最新刊を買い、どこか喫茶店に入ってそれを読む予定だったのだが。ジュンク堂は「太郎」を一冊しか置いてなく、しかも、その一冊を推定32歳のおじさん風若者が立ち読みしている。隣の書棚にあった競馬関係の雑誌の頁をペラペラ繰りながら、「太郎」の自由を待っていたのだが、それがなかなか。たまらずその場を離れ、時間を潰すべく店内をブラブラ回っていたら文芸雑誌のコーナーがあり。近年ほとんど手にすることさえなかった「現代詩手帖」を何気なく手に取ると、表紙に「帷子耀」の名が。え、あの?! 驚いて目次を見ると、彼の「作文」が巻頭に置かれ、続いて、四方田犬彦、藤原安紀子との鼎談が!

「現代詩手帖」に初めて触れたのは学生時代で、今月号の特集は「現代詩1968」となっているが、もしかすると、その1968年だったかも知れない。帷子耀はその頃、「新人作品」コーナーで毎号トップを飾る大スターだった(現代詩手帖賞受賞)。わたしは毎号購読していたわけではないが、そのコーナーだけは毎号立ち読みしていて、彼の作品に接するたびに、憧憬と嫉妬とそして腹立たしさを覚えていた。そのコーナーに応募などしたことはなく、そもそも詩など書いたことはもちろん、書こうとしたことさえないのだ。にもかかわらず「帷子耀」に複雑な思いを抱いたのは、彼の書く詩をまったく理解することが出来なかったからだ。今回、嘘! と驚いたのは、わたしと同年代だと思い込んでいた彼はその頃、まだ中高生だったというのだ。ウィキ調べでは、1954生まれというから、68年当時はナ、なんと14歳! しかし、70年代初めにまるでA・ランボーのように、彼の名は誌面から忽然と消える。鼎談ではあれは何故? という問いに「家庭の事情で」と応えているが、誌面に載っている現在の彼の顔がまあ、ほのぼの系の極でそれにも驚いたが、詩の世界から退いた後、彼は家業のパチンコ屋を継ぎ、ネット情報では、山梨県の実業界ではちょっとした存在だというから、これには更に驚いて。いや、もっとも驚かされたのは、巻頭の作文!(作品ではないと彼は言う)。「作文(ペンペン)です。」というタイトルで3作。みな、日記のような、短い小説のようなもの。いずれも昔のように難解無敵(?!)なものではなく、表むきはきわめて平明。しかし、その平明さが逆に中身の奥深さに比例していて。「作文Ⅱ(ペンペン)です。」はこんな作品だ。

子どもの頃、祖母に連れられて映画「楢山節考」(多分)を見に行き、見終わった後、「いい映画だったな。」という祖母の感想を聞いて、なぜか「その夜の闇に乗じて私は家族すべての呼び方を変えました。姉のユリコはユリステ。弟のヒロユキはヒロステ。妹のヒデミはヒデステ。母はオカステ。祖母はそのままオバステ。目の前にして呼ぶことはありませんでしたが父はオトステ。 人は皆、人を捨てる。人は皆、人に捨てられる。急に四方にある山々を覆っていた霧が払われ木々がくっきりと見えなおその成長する様、枯れるまでが眼前に一気に広がるのを感じました。」

こんな感じでまだ続き、終わりころには切腹して亡くなった「ミシマ」も登場。他の二編も凄い、マイッタ。

半世紀ぶりの再会となった「帷子耀」は、カタビラ アキと読む。

 

 

 

 

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