本などなくてもいい2018.10.18
映画「バウンド・トゥ・インポッシブル」を見る。数か月前にこのブログで触れた映画「たかが世界の終わり」の監督、グザヴィエ・ドランが自らを語り、彼の映画に関わったスタッフ・俳優が彼及び彼の映画について語るドキュメンタリーだ。彼らの話はともかく。時折流される映画の一部・場面がどれも斬新極まるもので、大いなる刺激を受ける。なにより、19歳で撮ったらしい処女作「マイ・マザー」から一作ごとに新たな試みにチャレンジし、6作目「たかが世界~」が示す高みにまで辿り着いた、その奔放にして着実に過ぎる足跡に驚かされる。何回か前に書いた「わたしの好きな現役映画監督」の時にもリストアップしたのだが、1本しか見てないので挙げるのをやめたのだった。すでに出来上がっているらしい新作、これまでの彼の作品、すべて見てみたい。
「今宵かぎりは …」の改訂・データ化にとりかかろうとするも、なかなか作業進まず。北斎の有名な逸話に、幼い子どもたちに白紙を与え、そこに適当に墨を垂らすように言い、それら垂らされた墨を素に、即興で一枚の絵に仕立て上げる、というものがある。つまり、渾身のテーマなど掲げずとも絵は描けてしまう、という話だ。「今宵かぎりは …」は、1920年代のパリで悪戦苦闘の日々を過ごした、佐伯祐三、藤田嗣治を始めとする日本の画家たちと、故あって日本からパリに逃亡した(?)金子光晴夫妻の交流を、虚実を織り交ぜながら描いたものだが、実在の人物をモデルにしているというのがどうも …。もちろん、この設定は誰に頼まれたわけでもなく自分で考えたものだが、書いている時ももうひとつノリが悪く、10数年経ったいまとなると更にそれが、というわけで。改訂しようと思ったのは、その出来上がりに不満があったからなのだが …
前田英樹の「愛読の方法」(ちくま新書)、ようやく読了。そのタイトルから、前田氏が愛読した(している)書を取り上げて、それらになぜ自分は惹かれるのかというような内容かと思いきや、そんな生易しい<教養の書>ではない。プラトンの「バイドロス」から始まって、ソシュール、中島敦、ベルグソン、ショーペンハウエル、デカルト、アラン、吉川幸次郎、伊藤仁斎、孔子、荻生徂徠、小林秀雄、本居宣長等々の書から引用しつつ、言葉とはなにかという問いから、「愛読の方法」へと移行し、最後は「愛読に生きよ」と命名された章で締められる。恥ずかしながらわたくし、著者の名は知ってはいるものの、挙げられた書はソシュールの「一般言語学講義」をちょびっと触っただけの痴れ者、そんな老愚の歯では味わうどころか、噛むことさえ困難な内容ではあったのだが、世にはびこる「耳寄りな情報」を垂れ流すだけの多くの書・著者とは対極に位置する、古武士を思わせる著者の毅然とした佇まいに、わたしは敬服・平伏してしまう。そう、「今宵かぎりは …」にもうひとつノレないのは、モデルになっている登場人物のエピソードや当時のパリの世相を台詞化し物語の体をなそうとしている、そのありきたりな、軽はずみな姿勢に違和感があるからなのだ、多分。「終わりの言葉」と題して、前田氏は次のように書いている。
書かれたものへの軽信から私たちが常に免れているための手だては、すぐれた本を愛読するしかない。(中略)次から次に出る本への軽信は、束の間の楽しみと、ぼんやりした不安や苦痛を与える。すぐれた本を独り愛読することは、生き甲斐と永続する喜びとを与えてくれる。これは、まず間違いない。間違いないが、このことを実際の愛読によって知っている人は、まことに少ないと言える。文筆業者が、やたらと数を増やす所以なのだろう。
因みに、今回のタイトルは、「愛読の方法」の冒頭に置かれた章のタイトルです。