生と死は合わせ鏡のようにあり …2018.10.11
映画「海辺の生と死」を少し見る。少しの中身は冒頭の20分と最後の10分ほど。面白くなりそうな気配皆無だったから最初の20分で見続けることを断念し、でも、原作となっている、島尾ミホの同名の書及び、島尾敏雄の「出発は遂に訪れず」他の小説は、半世紀ほど前のわたしの愛読書だったから、最後の10分を見た、と。とにかく退屈。戦時下の話なのに緊張感の欠片も感じられないのだ。もちろん、その責任は、監督の無能からくるものだが、しかし、昨今のこの国の大半の映画も同様で …
佐伯啓思の「死と生」(新潮新書)読了。読み慣れぬ仏教用語が頻出するため、読み通すのに骨が折れたが、終盤になって面白くなる。それはそれとして。文中、興味深いデータが引かれていた。NHK放送文化研究所の調査(平成20年)によると、「死後の世界」の存在を信じている人は44%で、信じていない人の33%をかなり上回っているというのだ。そして、別の調査では、昭和33年(1958年)と平成20年(1998年)を比べると、「あの世を信じる」人は20%から38%へとほぼ倍増し、「信じない」派は、59%から33%へと半減に近い状態になっているらしい。更に。これを世代別に見てみると、65歳以上の高齢層の「死後の世界」肯定派は、昭和33年が35%、平成20年が32%とさほどの変わりがないのに、29~34歳の若者層では、昭和33年に13%だったものが、40年後の平成20年には46%と3倍以上に跳ね上がっているのである。他にも男女別等、興味深い数字が並んでいるが、あとは割愛。興味のある方は、同書のP138~139をご覧あれ。
と、前文まで書き、次はどう続けようかとベランダに出てタバコを吸って戻ってきたら、おっと、日付が変わって11日に。ああ、わたしは今日から71歳! びっくりだ。
前述の数字を見てわたしが感じたのは、いまの(といっても平成20年は10年前になるが)若者たちは、死への不安や恐れが希薄なのではないか、ということだ。そして、死への不安や恐れの希薄さが、生の実感の希薄さにつながっているのではないか、とも。冒頭に挙げた「海辺の生と死」の退屈さは、おそらくそこからきている。わたしが想定している<生きてる人間>があの映画にはいない。みんなアニメの登場人物たちのよう。映画は、原作の終わりに置かれている「その夜」に重きを置いて、島の守り神と称された特攻の部隊長と島の姫のように遇されていた女性との最後の夜を、物語のクライマックスとしているが、原作の大半は、作者が子どもだった頃の思い出の記に占められている。つまり、原作では「海辺の生」が描かれているのに、映画は「海辺の死」に比重を置いていて、しかし、演じる俳優も監督も、生(死)の実感が希薄なため、ただただぼんやりと<徒な時間>が過ぎていくだけなのだ。
10日のお昼にBSで放映されていた黒澤明の「天国と地獄」(1963年公開)を久しぶりに見て、驚く。もちろん映画自体もよく出来ていて面白いのだが、数多の登場人物とそれを演じる俳優たちの、なんと表情豊かなこと! とりわけ刑事役の石山健二郎! 見たのは半世紀ほど前なのに、水夫長を意味する「ボースン」という彼の愛称を未だに覚えていた。それから、いくら昔の映画とはいえ、あの千秋実や名優・三井弘次がその他大勢に近い新聞記者役で出演。しかし、彼らは幾つか台詞があるのだが、同じ新聞記者役のアノ名優にして迷優(!)大滝秀治は、記者会見の席でただタバコをふかしながらメモをとってるだけの役。なんとまあ豪華な布陣。役者陣の層の厚さにびっくりである。
でも大方のひとはもういない。まだご存命なのは、子役を除けば多分、刑事役の仲代達也と犯人役の山崎努、それに、主人公の三船敏郎の妻を演じた香川京子くらいか。ああ、花は愛惜に散り …