青りんご2018.10.27
幾つになっても心にゆとりを持てないわたしである。エンドマークにたどりつくまで時間がかかりそうな「今宵かぎりは …」の改訂・データ化は後回しにして、チョチョイのチョイと仕上げられそうだということで「BIRD・SHIT」の改訂・データ化に取り掛かったのだが、世の中そんなに甘くはない。結構手間がかかっているのだ。というのは、作中で詩を二編引用していて、一本はアポリネールの「ミラボー橋」と、これは分かっているのだが、もう一本の「シモーヌよ きみの髪の森のなかには、大きな謎が隠れている」という一節から始まる詩、これが誰の作品なのか分からず。雑誌掲載の際には、作品の末尾に引用及び参考とした著書名を記すのだが、これはその予定がなかったので、末尾にはなにも書かれていないのだ。今回は文字化され公開されることがあるやも知れずということで、あれこれ調べたのだが …。「ミラボー橋」の方も、日本語訳が誰のものかなかなか分からず手を焼いたが、やっと、「フランス名詩選」(岩波文庫)に入っている安藤元雄訳であることが判明。しかし、もう一本の方は、ルミ・ド・グールモンの作品であるとまでは分かったが、翻訳者の方が …。手持ちの本から抜き出したはずだが、それが見つからず。うーん。
TVドラマ「あ・うん」に感銘する。NHKで1980年に放映された時にも見ているはずだが、例によって、フランキー堺と杉浦直樹が主演であることと、面白かったということ以外はほどんど記憶になく。
とにかく向田邦子のシナリオが素晴らしい。無二の親友である前述のふたりと、吉村実子演じるフランキーの妻の、いうなれば不思議な三角関係のお話なのだが、フランキーは、妻と友人が互いに惹かれあっていることを知ってはいるが、それを口には出さず、そして、惹かれあっているふたりは互いに手も触れないというプラトニックな関係を維持している、その美しすぎると言っていい三人の関係を、岸本加世子演じる、フランキーと吉村夫婦の娘がナレーションという形をとって綴っていくという構成。彼らの周囲にも、フランキー夫婦と同居していながら息子とは関係を断絶している、志村喬演じる父親とか、前述の親密な三角関係から疎外され孤独の日々を送る、岸田今日子演じる杉浦の妻、その他もいて、彼らそれぞれのエピソードの添え方がこれまた絶妙。名人芸ですな、これは。
俳優たちも素晴らしい。フランキー堺はわたしの好きな俳優のひとりだ。タイトルは忘れたが「駅前シリーズ」の一本で、彼が演じた高校の体育教師が忘れられない。一挙手一投足すべてがナンセンス一色に染められていた。しかしこの作品ではそれとは違い。若い頃に思い描いていたような人生を歩むことが出来なかったという挫折感と、そんな自分とは真逆な、スイスイと人生の荒波を乗り越えて生きてるような杉浦へのコンプレックスとで、決して小さくはない屈折を抱えた役柄なのだ。台詞の多くをボソボソと喋るのだが、その口調と喜怒哀楽の表情がとてもいい。しかし、もっとも驚かされたのは、岸本加世子だ。以前より、その高度な演技力に何度も舌を巻いたが、この作品では、日常のなにげない仕種、例えば、<寝ていて、上体を起こして、窓の外を見る>という一連の動きがなんとも艶めかしく、思わず身震いしてしまうほどなのだ。こんな動きが演出家の指示でなされようはずがなく、自分で、おそらく無意識に出来てしまうのは、天才の証拠である。あの美空ひばりが岸本を可愛がったというのも、同じ天才だからだろう。同病相憐れむというべきか。彼女のナレーションがまたいいのだなあ。ぽつぽつと、ひととそして人生の深淵・真実を語る。語りながら子供から大人へと成長していくのだ。うーん。演じた役は、肺を病んでいまは回復に向かっているらしい、18歳の女子高生。演じた彼女はこの時20歳。「あ・うん」の第三話のタイトル「青りんご」は、彼女と彼女が演じた役柄を指したものだろう。
以前にもこのブログで触れた「シネマトグラフ覚書」の中で、著者R・ブレッソンは、「シネマは演劇の映像化に過ぎない」という意味のことを繰り返し書いていたが、「あ・うん」を見て、演劇の映像化はTVドラマではないかと思った。久しぶりにヤル気が湧いてきた。芝居、作ってやるゾと。わたしはまだまだ「青りんご」。