名人と天才、再び。 「続あ・うん」全5話終了す。2018.11.02
身体はさまざまな(「脈」「睡眠」「呼吸」などの生理学的な)リズムを媒介する通り道のようなものであり、そのようなリズムが組み合わさって具体的な形になったものが行動であり、「こころ」とはこのプロセスの総体である。(村澤真保呂・村澤和多著「中井久夫との対話」より)
前回で触れたTVドラマ「あ・うん」に続く「続あ・うん」全5話、本日終了。前回の繰り返しになるが、向田邦子のシナリオの見事さに呆然とし、岸本加世子の絶品演技に痺れる。
無二の親友である水田(フランキー堺)と門倉(杉浦直樹)と水田の妻・たみ子(吉村実子)の<美しすぎる三角関係>を軸に物語が展開するのは前回と変わらないが、続編はそれと並行して、水田の亡くなった父親の腹違いの弟(笠智衆)と門倉家のお手伝い(野村昭子)の、水田夫妻の娘・さと子(岸本加世子)と学生・石川(永島敏行)の、ともに禁断の恋が語られるのだ。なにゆえに「禁断の恋」かと言えば。前者は高齢(70台半ば?)の男と亭主持ちの「芋俵」と呼ばれる推定50前後の女の、言うなればありうべからざる不倫であり、後者の学生は、大会社社長の息子でさと子とは歴然とした身分差があり、なおかつ危険思想の持主として特高の監視下にあるという設定なのだ。そんな二組の<禁断の恋>が、物語の軸となっている<禁欲の>三角関係を揺さぶる。門倉は、いまの<一見平穏な>三人の関係がこのまま続くはずがないと考え、水田に喧嘩を売って関係を絶つことにする。そう思うに至ったキッカケの設定が絶妙だ。水田の家に遊びに行くと、たみ子が古い水田の服を着ていて、それを見た門倉は思わず「いいなあ」と自らに禁じていた言葉を呟いてしまい、その「告白」は間違いなく「許されざる行為」につながってしまうと思い関係を絶つ、と。もうひとつ、さらに超絶とでも形容したい設定が。門倉との関係を絶った水田は、街で偶然、亡き父に似た老人に出会い、彼を誘って屋台のおでん屋で一杯やることにする。そして、酔いも手伝ってか、親友・門倉がなぜ自分(及び妻)との関係を絶つような行為を仕掛けたのか、その推測したところを老人に語るのだが。その長らく彼の心の中にくすぶっていたであろう正答的推測は、妻や門倉に話してその正否を問えるものではなく、かといって、ちょっとした知り合いに話せるような軽いものではない。しかし、誰かに自分の胸の内を伝えたいと思っていたところに、<対話を拒否していた>父に似た<遠くて近い>老人が現れて …。これ以上にないグッド・アイデアである。
普通の視聴者、いや、プロを自称するひとの多くも、俳優の優劣は、台詞・語りと表情の変化をその判断基準にしているかに思えるが、岸本加世子の素晴らしさは、そんなところにはない。前回も触れたが、普通の俳優・演出家が気にもとめないところの、なにげない仕種が素晴らしいのだ。第5話のラスト近く、彼の恋人が突然、水田家にやって来て、召集令状が来たことを伝えるところ。当然のように彼女は驚くわけだが、その「驚く」という演技を彼女がどうしたかというと、その事実を聞いた途端に右手指を口元にもっていき、彼が「失礼します」と言って玄関を出ていくまで、その体の状態をまったく変えないのだ。上手いと言われる女優さんなら、おそらくひと筋の涙を流し、嗚咽の声をもらすかと思われるが、彼女はそんな分かりやすい<俗な芝居>はしないのだ。階段を下りてくる時の足のさばき、カットが変わる寸前にちょっと首をかしげるその角度、ナレーションの語りの速度、リズム、高低、大小、等々、あれもこれも文句のつけようがなく、みんな凄い。まさに、<さまざまなリズムを媒介する通り道>のような身体性の持ち主!!