感傷と哄笑が木霊する、老若男女の、二人芝居の二本立て。2019.01.08
この数日の気ぜわしさはなんだ? それは誰のせいでもない、私自身が呼び込んだものだが。前回書いたように、今年10月の公演を皮切りに、わが演劇人生のラストスパートに入る。第一弾を自分自身の出演でと、その意気込みは結構と自画自賛していたのだが、つい2、3日前、ふと、不安がよぎる。上演予定の「今は昔、~」は、わたしと松本(修)くんとでやるのだが、「W爺の芝居を誰が見に来る?」という …。そこで考えたのは、若い女性のふたり芝居「眠レ巴里」と二本立てでやったらどうか、というもの。ふたつ合わせても、上演時間は2時間ほどで収まるはずだ。うん、これで行こうと即断即決。それですぐに「~巴里」の出演交渉にとりかかったのだが、ふたり、三人と運悪く(?)先約があって、出演者3人のうち、まだひとりしか決まってないのだ。あ、「~巴里」はふたり芝居ではなく、本当は若い男がひとり出るのです。エピローグの前のシーンで彼が事件の全貌を語るのだ。事件? 以前にも書いたが、二十代の姉妹が飢え死にするという …。3日前からこの本の改訂にとりかかって、今日完了。最初に書き下した時、姉妹が静かに息を引き取るところで、書きながら涙が止まらなくなってしまったが、今回もまた。まあ、哀しいお話なんです。去年の12月からとりかかっている「今は昔、~」もあと1頁で改訂データ化完了。つまり、ふたつ交互に改訂作業にとりかかっていたわけだが、まったく無縁と思っていたこの2作、意外に共通点が多くてびっくり。
まあ、2本ともふたり芝居だってことが大きいのです。ふたり芝居というと、真っ先に思い浮かぶのは、厳密にはこれもふたり芝居じゃないけれど、ベケットの「ゴドー待ち」ですね。これ、「彼らが待っているゴドーとはゴッド=神か?」みたいなことが当たり前のように論じられますが、そんなのワタシ的にはドーでもいい話で。ゴドーを待つふたりは、世界から追放されたふたりで、誰かを待っているというより、なにもやることがないし、行き場もないし、ほかに誰もいないから、ひたすらふたりで喋ってると。ゴドーを待ってるというのは、だから、ふたりの暇つぶしのネタ以外ではない、というのがわたしの考えで。この考えに則って、上記の2本は書かれている。「今は昔、~」は、彼らが撮った映画の完成記念レセプション会場で客を待っているのだが、定刻間近というのに誰も来ない、という話で、誰も来ないからふたりで喋るしかない、喋りが途切れると不安が募るから、なんだかんだとネタを考えては怒ったり笑ったりして、現在という時間を消費しているのだ。「~巴里」は、サラ金の取り立てから逃れるために、部屋に籠って、自分たちはもうこの世から消えてしまったことにする。でも、本当には消えられないから、自分たちの部屋を巴里(パリでなく)の三ツ星ホテルに見立てて、巴里をネタにあれこれ他愛もない話に耽ったりする。驚いたのは、2作ともに、電話が重要な地位を占めていて、受話器の向こうにはいない相手と話をする設定になっているところ。正確に言えば、「今は昔、~」は、どこにもない電話の受話器を取って話をするし、「~巴里」では、料金未払いで不通になっているのに、とうに亡くなっている母親と電話で話すのだ。そこにはいない誰かともことばを交わしあうことで、たまさかの安寧を得たいと、こういうことです。
因みに、今回のタイトルは、上記企画のキャッチコピーとして考えたもの。