嘘から始まり嘘で終わる、「ファーゴ」と「淋しいのは~」はラ・スンバラシータ! 2019.02.01
「眠レ巴里」に出演してもらう、平山さん、若尾さん、吉川くんの3人と会って、題材になっている「姉妹餓死事件」に関する資料と、劇中で語られる、いがらしみきおの漫画「さばおり劇場」一話分のコピーを渡し、稽古日程を按配するために3人の<都合>をすり合わせる。いずれも近大の卒業生だが、Aが卒業した年にBが入学し、Bの卒業した年にCが入学したため、3人とも他のふたりを知らず、今回が初顔合わせ。過剰な媚態を示さない。これが彼らを選んだ最大の理由だが、互いに微妙な距離間を保ちつつ言葉を交わしあう感じが絶妙で、ああ、稽古・本番が待ち遠しい。
コーエン兄弟の「ファーゴ」を初めてみる。傑作! 金に困った車の販売会社の重役の男が、彼の会社で働く男に紹介された<相当のワル>に、妻の誘拐を依頼する。妻を助け出すために、妻の父=彼が勤務する会社の社長に身代金を払わせ、それで自分の借金(?)を清算しようと考えたのだ。物語はそんな不埒な<嘘>を軸に展開していく。以前にも触れたように、「淋しいのは~」も同様で、嘘の連鎖が物語の原動力になっている。物語を物語として成立させるには、主要な登場人物たちの前に、繰り返し訪れる危機や行く手をふさぐ障害の設定が必要である。そしてそれは、見る者・読む者の不安をかきたて、そして、危機・障害を乗り越えた時には、観客・読者に大いなる安堵と喜びを与える作りになっていなくてはならない。「ファーゴ」「淋しいのは~」が面白いのは、彼らのついた<嘘・偽り>が、見る者に、「いつバレるか」「バレたらどうなる?」という不安を投げかけ、しかし、その<不安=危機>が、更なる<嘘・偽り>の上塗りによって、とりあえずではあるが、解消されるところにある。
雪と氷に包まれた郊外を一台の車がゆっくりともう一台の車を運んでくる。見る者の心まで凍らせそうな、こんなシーンから始まる「ファーゴ」の最後は、最初に嘘をついた金欠男の妻やら義父やらワルの片割れやらの無残な死にざまを次々と見せた挙句、事件の捜査にあたった、名優F・マクドーマンド演じる警官(刑事?)が事件解決後、我が家のベッドで愛する夫と「わたし達、幸せね」等々の<仲睦まじい会話>で終わる。数多の無惨な死などどこ吹く風といわんばかりのこのクールさこそ、コーエン兄弟映画の神髄。そして、「この物語は実際の事件をモデルにしているが~」という、映画の冒頭に掲げられるもっともらしい字幕が、実は真っ赤な嘘であるらしいことも。
西田の嘘から始まった「淋しいのは~」は最終回で、絶体絶命の土俵際まで追い詰められた西田等が、究極の嘘=ありえない芝居を作って、悪玉の権化=財津一郎を見事にうっちゃってケリをつける。ありえない芝居とは? 一同揃って休日の病院に入り込み、アレコレ嘘をかまして財津をそこへ引き込み、それぞれが医師になり、病院長になり、看護婦となって、彼に死期間近であることを宣告。結果、ショックを受けた財津は、西田等への取り立てを放棄してしまう。明らかにリアリティを欠いた嘘=お芝居だが、それでも成立するのは、物語全体が嘘の繰り返しによって成り立っているからであり、そして、この嘘臭さが、これに続くリアルな別れの<リアルな淋しさ>を際立たせるのだ。借金苦から解放された彼らは一座を解散し、それぞれがそれぞれの道を歩むことになる。別れる淋しさに耐えられない、矢崎滋演じる元・鉄道マンは別れ際、みんなに「もう一杯だけ、どこかでどう?」と誘うが、みな「そんなことをしたら余計に別れが辛くなる」と言って、それぞれ、先行きの不安とかすかな希望と、そして、ともに過ごした数か月の悲喜こもごもの思い出を抱えつつ、「淋しいのは自分だけじゃない」という言葉で自分自身を励ましながら、別々の方向に歩き出す。痛快な逆転劇に続けて、青春映画の幕切れを思わせる、こんなに切ないラストシーンを用意しておきながら、この最終回のタイトルが、なんとも威勢のいい「勢揃い清水港」というのだから、開いた口が塞がらない。天晴!