竹内銃一郎のキノG語録

未知なる道に踏み入る  稽古日誌①2019.06.16

14日(金)、稽古4日目。予定通りこの日から立ち稽古。33頁からなる「今は昔、栄養映画館」の3分の1、最初の10頁ほどをやってみる。家でひとりでやっている時には、スラスラとまではいかないものの、まずまず台詞は出てくるのだが、いざ立って動いてとなるとそうは問屋がおろさない。家に帰って、反省というか、演出している時に、とりわけ学生たちのように、演劇なんてやったことも見たことすらない出演者たち相手にいつも繰り返し言っていたことを、俳優としてはほぼ素人の自分自身に言い聞かせてみる。

もちろん、自分の台詞を覚えなきゃいけないのは必要。だけど、覚えた台詞をスラスラ言えるようにすることは、それほど重要なことじゃない。それよりももっと重要なことがある。台詞=言葉は体から発せられる。当たり前のことだけど、これ結構ないがしろにされがちで。つまり、その台詞を語るとき、座ってるの? 立ってるの? 移動しながら言うの? 台詞はそれをイメージしながら覚えること。「一調・二機・三声」って言葉がある。世阿弥って昔のエライひとが書いてるんだけど。どういうことかって言うと、①まず声の調子、高低・強弱・スピードとかを決めて、②声を出すタイミングをはかって、ってことは、イメージした声をここというタイミングで出せる<体の準備>をしておきなさいってことだよね、そしてそれから③声を出す、と。ついでに言えば、台詞を吐いた後の体についても、動かないで喋っていたとしたら、台詞が終わってもそのまま動かないのか、それとも終わったら動くのか、動くとしたらどこへどう動くのか、等々のイメージが必要。みんな自分の台詞をどう言うかしか考えてないんじゃないかと思うけど、発語前・発語中・発語後の重要度はみな同じなんだ。もちろん、これらは稽古をしながら考え選ぶことなんだけど、でも、稽古はひとつの結論を得るためにやるものじゃない、あれもあるこれもあるという風に、選択肢を増やすところに稽古の意味があるの。

なあんてね。これが演技の基本中の基本その①なのだが、「言うは易し行うは難し」で。そうそう簡単には出来ないことを改めて知るここまでの稽古。タメニナリマス。

二年ほど前から本格的な減量に取り組んでいる。かといって、そんなにハードなことをしているわけではなく、夕食を抜いて、毎日2時間ほど歩く、というのが基本方針。2時間歩くと俗にいう<万歩計>に600キロカロリー消費が掲示され、その数字の左隅に<万歳している絵>が現れるのだ。金曜はあまりに忙しすぎて散歩が叶わず、歩いたのは自宅と京阪七条駅の往復と、電車の乗り換えその他くらいで、稽古が終わり、松本くんと軽く一杯飲んで、電車に乗って、駅から家に帰る道すがら、今日は万歳ナシだなとズボンの左ポケットから万歩計を取り出して見たら、な、なんと消費カロリーが700超えで万歳している! そうか、今日は稽古で結構動いたからなあ、とそれなりに感じた手応え。

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