竹内銃一郎のキノG語録

書くのも言うのも難しい台詞とは?  稽古日誌⑧2019.08.27

先週の土曜、今回公演の制作をお願いしている垣脇さん、梛木さんが稽古を見に来られる。それもあって気合が入り過ぎたのか、途中何度か休憩を入れたから実質2時間強の短い稽古であったが、終わったらグッタリ。終了後、ふたりに稽古の感想を聞くと、「凄い迫力」と言われ、「おふたりの声がもの凄く大きくて」というのが、その主たる理由らしかった。確かに、わたしは子どもの頃から声が大きいと言われてきたが、松本くんはそれに輪をかけた声の持ち主。彼はいまも大学で教鞭をとっているのだが、その声の大きさといったら、200~300の受講生相手の大教室でもマイクいらずでは? と思わせるほど。

「声」で思い出すのは、斜光社、秘法の前期、出演者の大半が公演のたびに声をからし、まともな発声が困難になっていたこと。ま、昔の、いわゆる<アングラ・小劇場時代>の劇団の多くは、みなが怒鳴りあうことを基調としていて(だからこそ、転形劇場の無言劇が注目されたのだろう)、旧新劇グループからの批判のひとつとして、「うるさ過ぎてなにを言ってるか分からない」というものもあったはずだが。しかし、台詞が観客の耳障りにならないということが、即、その芝居がなにを言いたいかが分かる、ということにはならない。だって、歌詞が分からないチンプンカンプンの外国語の歌だって、わたし達は時に感動したりするわけですからね。更には、わたし達が他を理解する、しようとする時、鋭敏に機能するのは聴覚よりも視覚で、だからこそ絵画やダンスやいろんなスポーツに感動するわけでしょ。声は身体から発せられる。重要なのは、声=台詞ではなく、身体の方なのだ。だからといって台詞をおろそかにしていいというわけでは決してない、念のため。

昨日の「今は昔、~」の稽古、予定の25頁まで進む。いつもの通り(?)、覚えていたはずの台詞がすんなり出てこないことが時々。その理由を昨日の稽古で発見。

以前にも書いたことがあるはずだが、対話を主とする近代劇は、Aが質問・疑問等を投げかけ、それを受けたBが返答をする、この繰り返しによって成り立っている。Aの発信に対するBの返信には、①YESを基調としたもの。②NOを基調としたもの。③その他。と、3つのパターンがある。例えば、「これからどこに行くの?」という問いかけの返答として、①「ちょっとそこまで買い物に」、②「答えなくてはいけません?」、③「ああ、頭が痛い」。と、いう風に。わたしの考えでは、相手の質問にまともに答えない、まったく関係のない言葉を投げ返す最後の③をいかに有効に使うかが、作家のレベル判定の基準になる。③の駆使が、その人物像に膨らみを与え、物語の飛躍=展開のスピードアップを可能にするのだ(つまりは、①②に終始する戯曲は退屈・貧弱の極みということに)。昨日の稽古で発見したのは、これにまつわるもので、要するに、なかなかすんなり出てこないのは③の台詞なのである。対話だけではない。わたしが演ずる男1は、何度も電話で会話をするのだが、一度だけある男2との電話を除き、当然のことながら相手の言葉は、推測は出来るけれども具体的に語られることはなく、言うなれば飛躍続きの、まさに③的台詞の連続なのだ、これがしんどいのなんの。しかし、電話での会話はこれからが本番で、次から次へと電話がかかってきて、それにあわせて(?)、次から次と着ている服を脱がなければならず、これがまた、想像するだに恥ずかしく …。

ああ、どこまで続くぬかるみゾ!

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