竹内銃一郎のキノG語録

自作の物語のみが彼らを救う。  大阪公演を終えて2019.10.16

14日、大阪公演、終わる。台風襲来で、大阪方面はさほどの雨風も被害もなかったのだが、12日(土)の昼夜公演、客席はガラガラ、興行的に少なからずの打撃を受ける。しかし。洪水・がけ崩れ等々の台風被害を受けた方々に比べれば、ま、足の小指の爪先の垢程度の赤字だし、佐野さんご夫妻や元・ACMの女優さんだった見市さんたちのように、東京から前日に移動し、大阪のホテルに泊まって見に来てくれた方々もいて、恐縮するやら感激するやら。

芝居は概ね好評だったが、不評・批判はわたしのところには届かない仕組み(?)になっているから、それを全面的に信じるわけにはいかない。「俳優の竹内さんがこんなに凄いとは!」なんて感想も幾つかあったが、それはおそらく、どうせ素人の旦那芸でしょ、なんて思っていたからだ。だって、初日から日曜までの7ステージ、松本くんともども、毎回、台詞を間違えたり飛ばしたりしていたのだから。それが、土曜の夜の回に来た佐野さんから、さりげなく苦言を頂いたことが効いたのかどうか、楽日の舞台はほぼノーミス、出来上がりも常に辛すぎる自己採点でも80点くらいの出来栄え、楽日がわたしの舞台の初日になったのだ。当初は劇半ばを過ぎるあたりから喉がカラカラに渇き、声もかすれ気味になっていたのだが、日を追うごとにそれも解消。要するに、俳優としての経験不足が不安や焦りをもたらして、それが台詞の間違い・飛ばしにつながったのだ。でも、もう大丈夫。今週土日の熊本公演、来週土日の名古屋公演はバッチリ行きまっせ。

アンケートの中には、「眠レ、巴里」はよく分らない、という感想が幾つか書かれていた。舞台はパリの三ツ星ホテルなのに何故、お茶漬けなんぞ食べているわけ? なんて。うーん。舞台がパリの三ツ星ホテルでないことはひとめで分かるはずなのに。結局、台詞の<表層>のみを追っかけているから、わたしに言わせれば<ありえない>誤解・無理解が生じてしまうのだ。日常生活においても、ひとが語ることの大半は、真実からかけ離れているか、ズレている内容のものだというのが、わたしの基本的な考えだ。ひとは真実を語ろうとすればするほど、言葉との格闘を余儀なくされる。この考えをベースにして書かれているのがチェーホフの戯曲であり、わたしもそんな彼に倣って書いている。以前にも書いたように、今回上演の二作の登場人物はいずれも、健全な市民社会から追放され、置きざりにされた人々だ。そんな自らが置かれた惨状から逃れるために、「今は昔、~」のふたりは、映画監督・助監督役を自らに与え、今夜は彼らが作った映画の完成記念パーティーで …という物語を作り、語り、「眠レ、~」のふたりは、自閉した自室を、いつか行きたいと願っていた「巴里の三ツ星ホテル」と設定したのだ、つまり、自作の物語で自らを包み込み、前者は一夜を後者は残された数時間を、過ごそうとしたのである。

少なからずの観客は、自分たちの現在にはなにも響かない、無関係の舞台と思ったのかもしれない。しかし。6月から始まった稽古の行き帰り、京阪電車の車中の乗客の8割以上は、みなスマホ使いに熱中していて、そんな姿を来る日も来る日も目の当たりにしているうちに、彼らも詰まるところ、社会から置きざりにされているのではないかと思った。ネットやラインを通じて多数の人々と交流している? ホントに? スマホとの戯れに時間を割かざるをえないのは、忌憚なく直接ことばを交わしあえる友人・知人がいないからじゃない?

 

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