止まってンじゃん! 「止められるか、俺たちを」の感想と …2019.12.16
来年6月に上演する芝居の出演者探しのために、あっちこっちと芝居を見ているのだが …。以前にも書いたが、退屈極まりない映画や芝居は安らかに眠らせていただけるのだが、どれも苛々させられて眠らせてもくれない。芝居に刺激を受けず、これという俳優に出会えないのは、俳優にというより、薄っぺらな台本と、演出家にまっとうな「方法論」がないからだろう。俳優には多分、台詞の言い方くらいしか指示を出していないのでは?
昨日、録画しておいた映画「止められるか、俺たちを」を見る。1970年前後の若松プロの動向を、助監督の吉積めぐみを軸にして描く、というのがその中身である。監督の白石 和彌の作品を見るのはこれが初めてだが、ウィキを見ると両手に余るほど数多の映画賞を受賞していて、この作品も去年のブルーリボン賞を受賞しているようだ。てことは? 賞の選考委員がいい加減か、現在の日本映画のレベルがいかに低いかのどちらかだろう。いや、両方とも当たりかな?
物語の舞台となっている60年代後半から70年前半にかけては、この国に限らず、欧米の先進諸国を中心に、変革を求める反権力闘争の熱風が吹き荒れた時代だが、この映画にはさほどの熱もなく、風もまたそよとも吹かない。確かに、井浦新演じる若松孝二は繰り返し大声で悪口雑言をまき散らすのだが、それはせいぜいトイレでウ○コをひねり出さんとする中年男の唸り声程度のものでしかなく、前回触れた「キューポラのある街」で幾度も疾走して見せた吉永小百合の、溢れるような熱量には遠く及ばない。「止められるか、俺たちを」だって? 小百合さんに比べたら、おたくらほとんど止まってまっせ。
この時代に若松プロに所属していたひとそして周辺にいた人々に忖度したかのように、あの人もこの人もと多くのひとを登場させたせいで、個人のキャラクター、あるいは、それぞれの関係の密度・距離間がほとんど分からず、舞台の半分ほどを占める若松プロの事務所シーンでは、演じる俳優はみな堅苦しそうに座って、ノリの悪い台詞のやりとり・議論を単調に繰り返すだけの、まったく<運動性>を欠いたシーンとなっている。そう、殺気立った時代の最先端を行っていると自負していたはずの<彼ら>はどこにもいないのだ。集めた資料を羅列しただけの台本も最低だが、時代の空気はもちろん、各シーンごとに時間の経過や事件の勃発等々で微妙に変わる<その場の空気>を的確に描けない監督も凡庸に過ぎる。まったくの畑違いだが、レオ・マッケリー監督の傑作、「めぐり逢い」でも見て勉強したらどうか。ま、余計なお世話だけれど。こっちのストーリー自体はありきたりの、通俗的といっていいものである。
イタリアからアメリカに帰る豪華客船で、男と女が出会う。大金持ちの女性との結婚話でマスコミで騒がれている男は女たらしのプレーボーイで、女性にも会社社長の婚約者がいる。そんなふたりの行く末はどうなるか。ふたりの距離は少しづつ縮まっていくのだが、女性には自制心があり、他の乗船客たちの好奇心にさらされるのは堪らない、ということでふたりはなるべく距離をとるようにする。フランスの港に一日(?)寄港。男は女性を連れて彼の祖母がひとり住まいしているお屋敷に出かける。と、女性は祖母のお気に入りとなり、それをきっかけにふたりはまた急接近し、船がアメリカに到着する前日、半年後に結婚しようと約束。そして …。この映画の凄いところは、2時間の上映時間のうちの約90分ほどを、ふたりだけのシーンで構成しているところ。時に邪魔者が闖入することはあっても、ほぼふたりだけであれこれと言葉を交わすのだ。それを退屈だと思わせないのは、台詞がウィットに富んでいて、ふたりの距離間の変化を的確に見せる卓越した演出力のせいだ。<止まらない>とは、こういうことで、始まって10分くらいから、次はどうなる? 最終ゴールはどこに? とずっと見る者の好奇心を誘うように出来ている。実にサスペンスフル! 「止められるか、~」に決定的に欠けているのはこれだ。冒頭に挙げた芝居も同様。
若松映画にも触れようと思ったが、これ以上は長すぎるので次回に。