1980年 秘法零番館の旗揚げ① 活動の記憶⑫ 2020.05.21
松本くんから<苦闘の日々>を伝えるメールが届く。オンライン授業の心労、卒業公演参加を表明していた学生の少なからずが、コロナ感染を恐れて辞退した、等々。アレコレ考え、今年11月に予定されていた、「今は昔、~」の札幌・東京公演は来年以降に延期することにする。(出来ればいいのだが …)
とりあえず京都の「緊急事態」は解除されたが、恐れていたことが現実となりそうだ。劇場使用はOKとなっても、市・国から、過剰としか思えない制限が加えられるのではないか。観客は劇場のキャパシティーの半分or3分の1以下に抑えるべし、とか。ああ、あ、やってられねえ。などという暗い気分を吹き飛ばすべく、以下を陽気に書き殴ろう。
前回にも書いたように、40年前の出来事は細部まで覚えていない。例えば、新劇団設立や、それにともなっての劇団稽古場の決定は、春・夏・秋いつだったのか、とか。はっきりしているのは、メンバーの顔触れである。木場勝己(西村克己改め。当初は克己)、小出修士(修二改め)、森川隆一(利一改め)、和泉静伍(小川静夫改め)、そして、竹内銃一郎(純一郎改め)の、男子のみ5名。いずれも改名したのは<心機一転>を求めたからで、みなわたしが考えた。そして、これは中途で気づいたことだが、西村、小出、森川、の本名には数字が3・2・1とついているので、小川を5にすれば足して11(銃一郎)になると思い、彼を静伍にしたのだった。
秘法零番館の命名は、大学に入ったばかりの頃、早稲田の有名な古本屋(名前失念)の本棚で見た、A・ブルトンの「秘法十七番」から。その時にはパラパラと立ち読みしただけだったが、多色の活字に驚き、心惹かれたことは覚えていて、アレにしようと思い、「タロットカード」関係書を読んで、<星=希望と復活の象徴>である17よりも、<愚者=自由・不安定・素朴>の0を選んだ。こっちの方がその時のわたしの心境に近かったのだろう。
新しい劇団の稽古場は、JR王子駅から徒歩7,8分のところにあった。東十条に住んでいた小出が知り合いの不動産屋で探してきたのではなかったか。3階建てか4階建てくらいのマンションの一階で、広さは30~40平米くらい? 一度だったか二度だったか、稽古中、大声で怒鳴りあう場面があり、それに怯えた近隣のひとが110番に通報して、警官に踏み込まれたことがあった。ついでに。斜光社の後期、小川演出による「少年巨人」の稽古中にも警察に踏み込まれたことがあった。こっちの稽古場(木場の知り合いから借りた?)は、通りに面したビルの5階or6階にあったので外から丸見え、柱に縛りつけられた新ミスターがバットで殴られているところを通行人に見られて通報されたのだ。確かこの時だ。警官に「あなた達はどういう芝居をしてるのか?」と問われ、木場が、主人公が刑事数人にボコボコにされる「SF大畳談」の話をしたら、警官はムッとして「警察はそんなことはしない」と答えたとか。どっちにもわたしはいなかったので、これは後から聞いた話である。
劇団が劇団でありうるためには、やりたいと思えば一日24時間いつでも出来る固有の稽古場を持つべきだと考えたのは、おそらく、鈴木忠志さんの「内角の和」(而立書房・刊)の影響だろう。ここに至って初めて、本腰で芝居に向き合おうと思ったのである。もちろん、借りたところは夜昼いつでもOK、というわけにはいかなかったが。
旗揚げ作品のタイトル「あの大鴉、さえも」は、デュシャンの「大ガラス」(正式名「彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも」)と、エドガー・A・ポーの物語詩「大鴉」とから借りたのだが、いったいどこからそんな発想が生まれたのか、「大鴉」から「大ガラス」を連想したのか、あるいはその逆だったのか、いまはもうハッキリ覚えていない。どっちにせよ、その連想にわたしは小躍りして、ポーの詩を読み、東野芳明の「マルセル・デュシャン」(美術出版・刊)を精読したのだった。(この項、次回に続く)