竹内銃一郎のキノG語録

いちごつぶしておくれ  活動の記憶⑱2020.06.22

秘法弐番館が上演した「戸惑いの午后の惨事」は、正津勉氏の詩集「惨事」からヒントを得ている。といっても、話の中身はほとんど関係がない。弐が惨になって死(四)につなぐ、みたいなことを考えていたような(?)。

物語の核になるのは、<わたし>と<トモダチ>と書かれているふたりの名もない男。森川が演じた<わたし>はムショ帰りで仕事がなく、そんな彼を見かねて<トモダチ>=木場が、自分の仕事=ガマの油売りを彼に手伝わせようとして …、というのだが、結局、<わたし>がムショ帰りだという設定を具体的には明らかに出来なかった。今日、おそらく30数年ぶりにこのホンを読んだのだが、全体に駄洒落連発のコント風で、笑えるところがないわけではないが、これはちょっとキツイな、と思った。舞台は都会の中の塀で囲われた空き地。そこにキャバレーのホステスと思しき3人の女性が現れるところから、劇は始まる。3人は仕事場を抜け出して、この空き地に花のタネを植えにきたのだが、この冒頭のやりとりがなんとも長すぎて。きっと書けずに苦しんだ結果、こうなったのだ。3人がいなくなると暗転になり、明るくなるとお昼。塀の戸が開いて<わたし>が現れ、ガマの油売りの稽古をしていると、近くで働いてるOLが食事をしに現れ、初対面のふたりが他愛もない話に興じているところに<トモダチ>が現れて …。

多分、当時は自分でも気づいていなかったと思うが、このふたりの男の密なる関係、そして、「ガマの油売り」の口上をするという設定は、明らかに前回の「~溶ける魚」に重なっている。前回では、木場が劇中、電話の受話器を片手に落語の「鰻の幇間」の一部を演じるのだが、この作中で何度か演じられる「ガマの油売り」もまた落語のネタなのだ。

OLがいなくなって、ふたりで靴の安売りがドウコウなんてほとんど無意味な話をしていると、トモダチがウ○コをしたくなり、靴屋のチラシを手にこの空き地の大石の陰に走りこんでいくと(ほんとにクソ詰らない)、若い男女が飛び込んできて、それから、その男女を追いかけて、仏頂面のブチョウ、なにかといえば自重するジチョウ、そしてふたりの上役・なんにもセンム(専務)が現れ、具体的にはなぜ追われ追いかけているのかなにも語られないのだが、すったもんだしているうちに、なんにもしないはずのセンムが若い男女をナイフで刺してしまう。センムは自らの行動の正当性と、こんな結果をもたらした責任は、止めに入らなかったきみたちにも責任が …と語りつつ、彼らに口止め料3万円を渡して、刺された男女を抱きかかえて消えたブチョウ・ジチョウを追って、立ち去る。残されたふたりはどうなるか。トモダチは、3度目の口上を熱演しながら、ティッシュペーパーを取り出し「一枚の紙が二枚に切れる、二枚が四枚、四枚が切れなければ手で千切る、~さあ、お立合い」と言って紙吹雪をまき散らし、「どうしてそんな目で俺を見てるんだ」と叱声。わたしは「あのふたりは いまお前が立ってるところで刺されたんだ」と言い …。ちょっと切ないケンカ別れをして、ひとり残された<わたし>は、ベンチに座って、次のようなひとりごとを。

おれが忘れてきた男は たとえば耳鳴りが好きだ 耳鳴りのなかの たとえば 小さな岬が好きだ ~

以下、かなり長めとなるこの台詞は、石原吉郎の詩「耳鳴りのうた」の引用だが、多くのやりとりは駄洒落のオチがついていて、ここというところでは、この詩あるいは「ガマの油売り」を引用している、この方法がなんともかとも。苦闘の跡が見えて、少々同情はするのだがこれは残念ながら愚作です。ついでだから、最後に、チラシのキャッチコピーとして引用した、同じ石原氏の詩「いちごつぶしのうた」を以下に。

いちごつぶしておくれ ジャムのように夕焼けを 背なかいっぱい ぬりたくられ
おこってどこかへ いってしまうまえに いちごつぶしておくれ いちご つぶしておいておくれ

 

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