竹内銃一郎のキノG語録

ハンディキャップをものともしないカッコよさ。二本の仏映画の傑作をご紹介2020.09.17

来年1月に上演する「さいごのきゅうか」に関する準備のあれこれ、6月上演の「恋愛日記86’春」に関するあれこれ、来年から刊行予定の「竹内銃一郎集成」に関するあれこれ、いずれも60~90%ほど進んで、やっと一息。久しく遠ざかっていたTVでの映画鑑賞を再開。その中の傑作2本を紹介する前に、現在のこの国の映画・TVドラマ・演劇の<貧しさ>を代表するような映画について若干。

男ひとり女ふたりのバンドが、全国7か所でのライブ・ツアーに出かけるところから物語は始まる。どうやらこのツアーの終了とともにバンド解散が決まっているらしく、3人の恋愛のよじれが原因となっているらしい。そのこと自体にいいも悪いもないのだが、男の運転する車に乗り込むふたりの女がともにつんけんした態度をとっていることに、まず「なんだ、これは?」と違和感をもつ。結局、最初の10分と最後の10分足らずしか見ていないから、なぜそういう状態・結果になったのか、そこらへんはよく分からない。しかし、これから始まるツアーがグループ最後の共同作業になるのなら、後悔の残らない最高の場にしようとするのが、わたしが考える<フツーの表現者>であるから、こいつら最低だなと思ってしまい、グイ~んと早回ししてラストへ。ツアーが終わり、東京(多分)に帰って来た彼ら。ふたりの女は楽器等の荷物を車から降ろし、ともに仏頂面で挨拶もせず左右に分かれて歩き出す。それを確認して運転席の男は悲しそうな顔をして車を出そうとするが、気がつくと、いつの間にか後部座席に戻って来たふたりが座っていて、互いを乱暴な言葉を投げかけあって笑って、それでお終い。なんだ、これは? わたしだったら、前述したように、ご機嫌状態で出発し、途中で「これで解散?」と思わせるような激しい対立が繰返し起こるも、なんとかそれを乗り越えた感動のライブを最後に、3人が泣き笑いしながらそれぞれの道を行く、という形をとるだろう。ひとは安易に自らの腹の中を言動によって他者には示さない。笑っているけど腹の中は煮えくり返ってるとか、涙しながら、心の中では舌を出してあかんべえをしている、それが人間らしい人間、というのがわたしの基本的な考えなのだ。

前述の映画とタイトルが若干ダブる「リード・マイ・リップス」(監督 ジャック・オーディアル)は、2001年に作られた<ねじ曲がった恋愛映画>の傑作。ヒロインは難聴の30台(多分)のOLで、彼女の相手になる男は、ハローワークを経由して、彼女の助手を務めることになるムショ帰りの男。ともに周囲から侮蔑・差別の対象となっている存在で、おそらくそのことがふたりを近づけたのであろう。男はやくざグループから借金をしていて、それを返すために、昼は会社で夜はやくざが経営するクラブでバーテンダーとして働くことになるが、そのうち、女も彼の手助けとして毎夜、働きに出ることになる。その仕事とは? 男は女を、クラブの上階にある親分のオフィスの向かいのビルの屋上に待機させ、難聴のために磨かれた彼女の高度の読唇術を使って親分が盗んできた大金の隠し場所を探り当て、横取りしようと考えたのだ。そして …。ユーモア溢れるふたりの言動には何度も笑ったが、しかし、物語の進行とともに、ふたりの計画が不成功に終わる確率は明らかに上昇、そのことが、彼らへの同情を深め、と同時に、結果の恐ろしさの震えを覚えさせる、そこが堪らないのだ。

もう一本は、2,3年前に公開された「アマンダと僕」(監督 ジャック・オーディアル)。アマンダは7歳の女の子で、僕は彼女のシングルマザーの弟、つまり、アマンダの叔父さんである。彼らは近所に住んでいて、時々、彼らの間に諍いが起こるがまずは関係良好、僕には恋する彼女も出来る。ところが、物語の半ばを過ぎたあたりで思わぬ悲惨な事件に見舞われて …。「リード~」のふたりは、美人でもなくいい男でもなく、にもかかわらず実に魅力的な俳優なのだが、こっちのアマンダを演じる女の子も、見かけは、時に「おばおちゃん?」と思わせる風貌だが、とても可愛くてけなげで、その魅力がフル作動するのがエンドマーク間近の以下のシーン。

彼女は僕と一緒に、僕の「まったく記憶にない」母親が住むイギリスに行って、テニスのウインブルドン大会の一戦を見ている途中、片方の選手が40対0に追い込まれると、何故か彼女は泣き出してしまうのだが、そのわけの分からないけれど見事な泣きっぷりにこちらもつられて …。映画が始まって5分くらいだったか、彼女は自宅のテーブルに置いてあった「エルヴィスのなんたら」という本を手に取って母親に、「エルヴィスって誰?」と聞くと母親は「こうこうこういうひとよ」という説明の中で、「エルヴィスはもう帰った」という一時期の流行語の意味を教える。つまり、エルヴィスの全盛期には、コンサートが終わってもなかなか会場から出ていかない観客たちに「エルヴィスはもう帰った、もうお終いです」というアナウンスが会場から流れたところから、「エルヴィスはもう帰った」は、「物事の終わり」を意味する言葉であることを。そのあと、バックで流れるエルヴィスの歌にあわせ、アマンダと母親が一緒に踊り狂うというなんとも楽しく忘れがたいシーンがあり、このラスト間近でアマンダは泣き出す前に、「エルヴィスはもう帰った」と呟いていて、つまり、彼女は一方的にやられている選手をいまはもういない母親とダブらせ、おそらくそれで泣き出したのだが、わたしもまた、前述のダンスシーンでの満面の笑顔の彼女を思い出して泣いてしまったのだ、おそらく。

書き足りないこと多々あるが、今日はここまで。明日から3泊4日で福井に出かけるので、そろそろその準備にあたらねば。おそらく10年ぶりくらいになるはずの高校演劇大会の審査を引き受けたのだ。当然、ことばを選んで感想を述べるつもりだが、結果やいかに?

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