活動の記憶㉖ 暗いトンネルの向こうに一条の光が …? 苦闘の80年代後期2020.11.12
12月に入ると、来年1月末上演の「さいごのきゅうか」の稽古が始まる。その前になんとか「20世紀の記憶」を終わらせたい。急げ急げ。
前々回に、「86年に入ると一気に忙しくなる。」と書いたがこれは85年の間違い。86年の公演は、「恋愛日記 86’春」と「酔・待・草」のみ。だが、しかし。チラシを見ると、前者は護国寺アトリエで、5月1日から25日まで21日間(4日間休み)全25ステージで、これはこれでハードスケジュールだが、後者は凄い。新宿・紀伊国屋ホールでの公演(9月6日~11日)を皮切りに、同月16日の札幌公演から、八戸、青森、盛岡、京都、芦屋、伊那、飯田、名古屋、柏崎まで約半月かけて10カ所を転々、その一か月後に前橋での演劇祭に参加で終わる、と。いやあ、チラシでこれを確認してビックリ。すっかり忘れてた。この大半は、確か、北海道演鑑の平田さんが他地区の演鑑に声をかけてくれて実現したものだ。この中では伊那での公演が忘れられない。島(次郎)さんの舞台装置は、背景全面を劇団員手作りの、多分2、3千個ほどの花で埋めているため、このセットの準備が大変だったのだが、演鑑会員の皆々様が朝早くから劇場に来ていて、これを手伝ってくれたのだ。打ち上げにはこの人たちの大半が参加し、盛り上がったのなんの(コロナちゃん、いなくてよかった)。
この年の両作品は、来年から発刊する「竹内銃一郎集成」に所収の、いうなれば、わたしの作品の中では上級品である。以前にも書いたように、小出の退団によって大きな穴ボコが出来てしまったのだが、前年辺りからそれを森永ひとみが埋めて、従来の作品からの方向転換の手引きをしてくれたのだ、と今にして思う。彼女は「大鴉」のあとの「劇団員募集」に応募してきたのだが、試験(?)の当日に現れず。応募時に送ってくれた作文が気に入っていたので、どうしたのか、その気があれば受験してほしいと手紙を書いたらやって来て。しかしこれが。アレは「少年巨人」のナボナの最後の長台詞だったか、これを読んでと渡したら何度もつっかえ読み違え、こりゃ駄目だということになったが、もしもお芝居をしたければ、暇なときに稽古場を覗いてもいいよ、と言ったら、彼女はまだ学生だったが、ほぼ毎日やって来て基礎訓練にも参加。驚いたのは彼女の声だ。透明さがあるのにとんでもないヴォリューム。彼女が発声すると稽古場の窓ガラスがビリビリと震えたのだ(これホントです)。この年の終わりだったか翌年初頭だったか、若手劇団員たちによる唐さんの「少女仮面」に彼女も「腹話術の人形役」で参加し、ダントツの演技を見せて、終演後「劇団に入る?」と訊ねたら「是非」と応えて …。
翌年の87年は、彼女と片桐はいりのふたり芝居で、いまも毎年のように上演許可申請が届く「かごの鳥」(1月30日~2月8日 シブヤ・シードホール)から始まる。これは劇場からの要請に応えたものだが、女性のふたり芝居をとあったかどうか。演出部の別所さんに「かごの鳥」というタイトルでよろしくと台本を頼んだのは、3月に「さんらいず、さんせっと」というタイトルで、斜光社時代に上演した「夜空の口紅」の改訂版上演が決まっていたからだろう。この頃、はいりはメジャーなCM(ミスタードーナツ?)に出ていて、ひとみと3人で歩いていると、小学生たちがゾロゾロ、はいりの後をどこまでもどこまでついて来た。それほど彼女は人気者で、公演の客席には久本 雅美がいて驚いた。はいりとはこの後、さいたま芸術劇場で上演した「ひまわり」(1997年)と、カメレオン会議の「たしあたま」(1998年)にも出演してもらい、数年前に小野寺さん演出の「大鴉」(2016年)にも出演。年を追うごとにガンガン(ギンギンに?)お芝居がお上手になっていて、見るたびに驚く。
斜光社の旗揚げ公演「少年巨人」以来、新人公演を除く劇団の公演すべてに出ていた木場が、「さんらいず~」以降、この年の劇団公演3本のいずれにも不参加。前年にオーディションがあった「レ・ミゼラブル」の日本版初演とフジTVの「銭形平次」(風間杜夫主演)の両方に合格し、後者を選択。彼は斜光社の頃から、昼は喫茶店、夜はスナックの店をやっていたが(当初は小出と共同経営だったが、途中で小出は抜ける)、40も間近になって役者で身を立てたいと思ったのだろう。(この項、続く)