竹内銃一郎のキノG語録

活動の記憶㉕ 忘却の彼方 80年代に書いたTV、ラジオのシナリオについて2020.11.09

前回、「86年に入ると一気に忙しくなる。」と書いて公演をズラズラ並べたのだが、いや待てよ。この頃は芝居ばかりではなく、映画やTVドラマ、とりわけラジオドラマの台本を結構書いていたのでは? と思い出し。当然(?)なにをいつやったのかは覚えていないので、ネット検索をしたら驚くべきことが続々出てきて …。

映画のシナリオは、これまでも何度か書いたが、10数本ほど書いて映画化されたのは、「危険な女たち」(86年公開)「TOMORROW/明日」(88年公開)佐野さんが監督した「KARAOKE」(99年公開)、それに、シナリオをズタズタに書き換えられた上に、あまりの愚作なのでこれまで表沙汰にしなかった「チー公物語」(監督・中田新一 91年公開)の4本。TVドラマのシナリオも5,6本ほど書いたはずだが、作られたのは「まばたきの海に」(NHK 笠浦友愛・演出 94年公開)のみ。先の愚作「チー公物語」に柄本さん、竹中直人が出ていたことを知って驚く。まったく忘れていたのだ。また、「まばたき~」には、中村久美さん、浅野忠信、そして、わたしも出演。中村久美さんは、早坂暁がシナリオを書いたNHKドラマ「夢千代日記」以来のファンで、「月ノ光」にも出演してもらったが、こっちにも出演されていたとは驚きだ。まったく忘れていた。もっと驚いたことがある。

ラジオ関係で初めて書いたのは、ドラマではなく新作講談の台本「時越半四郎」。筒井康隆の短編小説が原作で、語りは二代目悟道軒圓玉師。放送されたのは多分、「大鴉」で岸田戯曲賞を受賞した時、師にはその授賞式に来ていただいたから、81年の春だろう。73年に史上最年少で芸術祭大衆芸能部門優秀賞を受賞、1977年 – 芸術祭優秀賞受賞とネットにあって、このことにも驚いたが、もっと驚いたのは、今なお現役で講談をおやりになっているらしいこと。というのは、89年1月に車にはねられて重傷を負い、失語症、記憶喪失等々を患い …、ということは知っていたから、にもかかわらず、それを乗り越えて現役に復帰されたと書かれているからだ。表面的には優しく穏やかなひとだったが、実は容易にはくじけない、根っからのファイターだったのだ。

ラジオドラマは、82年1月に「ジャズ大名」。これも原作筒井康隆。彼の小説の面白さを教えてくれたのは伴睦人こと鈴木くんで、彼と知り合った70年代後半から80年代前半にかけて、まるで取りつかれたように彼の作品を読んでいたのだ。この作品には由利徹が出演。読み合わせに出席したのだが、由利さんアドリブ連発で笑う。これには、木場、小出、森川も出演。続いて、河野典生原作の「明日こそ鳥は羽ばたく」を82年4月連続5回放送。2年ほど後だったか、この小説の映画化のために大和屋さんがシナリオを書いたことを聞いて驚く(映画化ならず)。なだいなだ原作の「不眠症諸君」(83年)は、当時からファンだったケーシー高峰が主演。同じ年に「真夜中のハンティング」。原作は藤原新也「東京漂流」の中にある、「この国の最後の野犬」を追いかける、かなり面白い話。わたしが書いた台本をドイツのラジオ局でも使って放送され、少額ではあったがお金も貰った。この82~3年は、「夢みる、力」が書けず、中途半端なホンで上演した「かきに赤い花咲く~」の初演があった年。さらには、具体的なことは覚えていないが、この時期、黒木さんからの依頼で映画シナリオを2本ほど書いたのではなかったか。ホント、忙しかったのだ。

少し間があいて89年に、これはオリジナルの「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」(7月放送)、9月に、これもオリジナルの「ひばり」。これについても以前に書いたが、同じ年の6月に桃の会「プラスワン」の公演があり、それが終わると京都のホテルに缶詰めになって、笠原和夫が書いた「浪人街」のシナリオを全面改稿。毎朝、その日に撮影する分を黒木さんに渡していた。なんてことををしている間に、前述の「ひばり」の録音日が間近に迫り、福岡に呼ばれて、ここでも最初はホテルに缶詰めに、なる予定が、もうそんな時間もないということで、NHKの一室でホンを書き、2,3枚書いたら、それを録音という、超々ハードなことに。この日のうちに録音を終わらせてしまわないと、放送出来なかったからである。出演は白石加代子さんと豊川潤。話がどう展開するかも分からずに演じたおふたりだったが、放送を聞いたらかなりの出来栄えで、「さすが!」と驚く。確かお盆の時期で、まだ終わっていない「浪人街」を書き上げるために京都に戻ったのだが、新幹線は超満員でずっと立ちっ放し。これが原因で腰を痛め、四条河原町の通りで路上にへたり込んで起ち上がれず、救急車で病院へ。うーん。これは切なすぎる思い出だ。ひとが路上で横たわっているのに、日中で人通りも多かったのに、誰も「どうしました?」なんてなかなか声をかけてくれなくて。わたしは痛みのあまり、声も出なかったんです。

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