竹内銃一郎のキノG語録

活動の記憶㉚ 秘法解散後の3年間 ありがたや2020.12.04

なぜ秘法解散となったのか。90年前後には、太田省吾さんの転形劇場をはじめとして、多くの小劇場系の劇団が解散した。それぞれにはそれぞれの理由・事情があったのだろうが、少し引いて見れば、60年代半ばに始まった「小劇場ブーム」が20数年を経て下火になったことが大きな理由といえるだろう。むろん、わたしもそれを感じてはいたが、それとは別のもっと個人的な理由があった。それは、ホンを書き演出をすることに使うエネルギーよりも、劇団主宰者として使わねばならぬエネルギーが膨大で、そのことに疲れ果てていたのだ、多分。要するに、作・演出のみに専念したいと思ったのである。もちろん、劇団をやめてもその種の仕事が次々と舞い込むなんて露とも思わなかった。いつ頃からか、2年間無収入でも食うのに困らない額の貯金をせねばと思っていて、解散の何年か前から、その目標額を確保していたので、まあなんとかなるだろうと思ってもいたのだ。

あれはみなに解散したいと伝えた時であったか。若手劇団員にむけて、新しい劇団を結成するのであれば、わたしはそこでホンは書かないが、要望があれば1年に1本演出はすると言ったのだ。それもあって、若手数人で新劇団を起ち上げ、HI-HO2(2はこの大きさではなく2乗の小さい字)と命名。考えたのは小林だったかな?

HI-HO2は、富岡多恵子の短編小説「犬が見る景色」をもとに、小林、岩本、松岡、中西、それに美術の西村泉が書いた短編戯曲をわたしが編集して演出した「いとこ同志」(1990年7月 於:渋谷ジャンジャン)を皮切りに、岩松さんに、アポリネールの短編小説「詩人のナプキン」を原作にしてと依頼して書いてもらった「サラダ・ボール」(1990年12月 於:シードホール)、鈴江くんに、「風の研究」(作者は誰だったか?)をもとにと依頼して書いてもらった「はたらく、風」(1991年11月 於:アレーナホール)と、この3本をわたしが演出し、その後、M・プイグの小説「このページを読む者に永遠の呪いあれ」の一部を岩本ともうひとり(前田かな?)で上演し、それを最後に静かに解散。「サラダ・ボール」も「はたらく、風」も、残念ながらというのか、わたしが依頼した<原作>とはほとんど関わりのない作品だった。おそらくあまり興味を惹かれなかったのだろう。

上記3作と同時並行的に、まずは吉田日出子さんから依頼された「あたま山心中」(1989年4月上演 於:自由劇場 鵜山仁演出)を書き、同年6月上演の桃の会「プラス・ワン」(於:俳優座劇場)の作・演出、以前にも書いたが、この時は、ラジオドラマ「ひばり」と黒木さんからの依頼で、笠原和夫氏が書いた「浪人街」のシナリオに手を入れるのが重なってダウン、90年には、映画「スティング」を原作に、菅原文太、錦織一清主演で上演された「ザ・スティング」(2~3月 演出:牧野敦(=鴨下信一)於:シアターコクーン)の台本を書き、この作品は翌年の3月にも、ほぼ同じ顔ぶれで再演されたのだが、ミュージカル化を前提に手を入れるよう言われたので、前作に大幅に手を入れ。そうだ、「いとこ同志」では、台詞はないけど舞台上で椅子に座ってずっとコーヒーを飲んでる役を演じ、この稽古と同時並行で、柄本明劇団の「陥没」で押し売りの役を与えられて、その稽古もしてたのだ。ふー。さらに、1991年には、東京乾電池からの依頼で、「恋愛日記」(岩松さんが乾電池用に書き換え)を若手俳優で上演。同年9月には、銀座セゾン劇場で安部(公房)さんの「榎本武揚」を書き換え・演出。結局、秘法解散の翌年の1989年から91年までの3年間に、10本の芝居と2本のラジオドラマ&映画のシナリオ2本、計12本に関わったのだ。中には「榎本武揚」など、後悔多々で終わった作品もあったが、この作品を通じて、出演者だった佐野さんと知り合い、学生時代からファンだった安部さんから優しい言葉をもらって感激したし、「あたま山心中」の企画者でもある吉田さん出演のホンが書けたなんて夢のようで、「スティング」を演出した鴨下さんから、H・ホークスの素晴らしさを教えられ、「陥没」の稽古場で柄本さんの芝居を繰り返し間近に見られたこと、「ひばり」の白石(佳代子)さんに感激し、そして、乾電池の「恋愛日記」で想像だにしなかった芝居を連発した広岡さんには舌を巻き巻き、エトセトラ。この89年~91年の3年間は、これ以後のわたしの仕事の展開に、大きな影響を及ぼすことになったのだ。ありがたや。

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