竹内銃一郎のキノG語録

唯一、悪くないぞと思ったのは、蒼井優。野田秀樹「南へ」を見る2011.02.28

ブログ書くの久しぶり。こういうものは、ま、習慣ですからね。少し間があくと、書く気が失せるといいますか。
誰か読んでるひといるのかなと思っていたら、最近会う人が口裏をあわせたように「読んでます」という。うれしい。ま、それが励みになって、久しぶりに、というわけです。
この歳になっても日々「発見」がある。
先週の木曜、座・高円寺の研究生の発表会を見る。わたしの戯曲を上演するので、見て感想を聞かせてほしいと言われ、それに応じたのです。
3本上演され、そのうちの2本がわたしの作品で、残りの1本がイヨネスコの「授業」。
「発見」というのは、わたしの「大鴉」は、10分くらいの上演なのに、それがどういう芝居かが分かったのだ。「授業」も同様。亡くなった淀川長治は、いい映画はそのストーリーを2,3行で紹介できると言っていた。最近どういう風の吹き回しか、いろんなところで「大鴉」が上演されていて、その理由がよく分からなかったのだが、結局、こういうことなのだろうか?
わたしのもう1本、「眠レ、巴里」は愛着のある作品だが、残念ながら一部だけの上演では、なにがなんだか分からなかった。
土曜は、野田秀樹の新作「南へ」を見る。まだ上演中だから、その中身の具体について詳述はしないが、結論だけ記そう。退屈!
退屈の中身の理由のひとつが、話が最後まで見ないと分からない、ということ。確かに、どんな物語もミステリー・謎解きの要素を含んでいる。けれども、最後の最後になって、ああ、そういうことかって分かるのって、TVの土曜ワイド劇場とかでやってる安いドラマと同じでしょ? 学生が書いて来る戯曲の多くもこの手なんだけど。
最後まで分からせない方が高級だと思ってるのかな? そういうお馬鹿さんは、ハワード・ホークスの映画を見てほしい。始まって10分足らずでみんな分かってしまう。その爽快さ!
退屈の理由その2。多くの作家は書くことがなくなると、身辺雑記に終始するか、天下国家を論じだす。今回の作品は後者。ほとんど憂国の士みたい。明日にでも田原総一郎と「国防論」などを語りそうな気配だ。
退屈の理由その3。岩松さんが、このブログに書いた彼の新作評を読んだみたいで、その感想をメールで送ってくれたのですが、その中に「わたしは演劇を(野田みたいに)信じない」という意味のことを書いていて。
まさに、野田さんは演劇を信じているというか、正確に言うと、演劇的と思われている手法を信じているのですね。昔、ピーター・ブルックの「テンペスト」を見た時、簡単に言うと、幼稚園の学芸会みたいな素朴なことを、頭の禿げ散らかったおじさんたちが真面目そうにやってるのを見て、「いい歳をして…!」と呆れたものでしたが、ま、それと同じ印象。パンフには、演出には俳優たちみんなのアイデアを取り入れて、みたいなことが書かれてあったけど、ま、一言でいえば、下らないんですよ。幼稚園児がやってれば許されるんだけど。
もちろん、その下らなさは、例えば、最近とうとう見てしまった、ホークスの映画「大自然の凱歌」の酒場の大乱闘シーンのバカバカしさとは、対極にあるもので。
退屈の理由その4。俳優としての野田さん、わたしは結構好きだったのですが、これが! もしかしたらどこか体でも悪いのか、まったく冴えない。確かに出番も少ないんだけど。出ていてもうっかり見落とすほどの影の薄さ。 太ってるように見えたのは衣装のせい? 違うと見たが。
唯一、悪くないぞと思ったのは、蒼井優。CMでしか見たことなかったけど、ふにゃふにゃした外見に似合わず、動きも喋りも、役柄もあったのだろうが、シャキシャキしてて男の子のよう。とても意志的な、普通にうまい俳優さん。チャーミングだし。
一方、もうひとりの主役の妻夫木くんは、大きすぎる顔と短すぎる足の印象のみ。残念でした。性格はよさげなんだけど。
岩松さん、先のメールで、馬鹿な評論家は野田ならなんでも褒めるって書いてたけど、ほとんどの批評家は目の不自由なひとだから、動いてるものを正確に捉えられない。最近の野田さんの芝居。前述したようにすっかり動かなくなってしまったから、その分、彼らの理解が行き届くようになってと、こういうことだと思われます。
動く/動かないって、体のことではなく思考のことです、念のため。

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