竹内銃一郎のキノG語録

自己憐憫の歌が聞こえる ピッコロ劇団「蛍の光」を見る2011.06.09

今日も河内小阪駅前商店街に、あの度し難い歌が流れている。
わたし今日失恋しましたぁぁ
なにが度し難いって、日本語のイントネーションとリズムを無視したメロディもさることながら、ま、あのしなだれかかるような歌声ですね。わたしかわいそうでしょ、かわいそうなわたしって可愛いでしょ、とでもいいたげな。あの歌を聞くたび、そんなうざいこと云ってるから振られるんだ! と心の中で怒鳴っている。
そんなしょうもない歌声をバックに、凄い台詞を聞く。
登場人物は、自転車に乗った推定年齢57歳のおばはんと、後部が荷台になってる三輪車に乗った推定年齢78歳のおばあさん。
おばはんがわたしの脇をすり抜けて、おばあさんの背後からこう言った。
えらいこいでどこ行くの?
この台詞の凄いところは、普通なら、どこ行くの? だけでいいところを、「えらいこいで」という、いかにも大阪味な笑える修飾句をわざわざつけてるところ。
が、ここでわたしが書きたいことはこのことではない。
演出の際、 わたしが執拗に指示することの大半は、立ち位置と距離についてだ。
例えば、先に挙げたおばはんとおばあさんのワンシーンがあったとして。実際あったように、おばはんが背後からいきなり声をかけるような芝居をしたら、わたしはNGを出すだろう。なぜ並んでから声をかけないのか、と。そんなことしたら相手がびっくりするだろう、年寄りだし死んだらどうすんだ、と。
なぜおばはんはこんな通常のひととひとのあるべき距離感を無視したようなことをし、なぜおばあさんはさほど驚きもせず、この非常識を受け入れたのか。
答えは簡単だ。彼女らにとってこれがフツーだからだ。というか、この距離感のなさがうれしいのだ。肩を寄せ合ってる実感がたまらないのだ。

 
このブログにも転載した「悲劇喜劇」に書いたわたしの文章を読んだ岩松さんから、読みましたというメールが届き、それに、そのメールが来たとき研究室で見ていたH・ホークスの映画「暗黒街の顔役」(傑作!)の主人公の妹がいかにも岩松さん好みの女で云々と書いて返信した。
むろん、そう思ったからそう書いたのだが、改めて、岩松さん好みの女ってどういうんだろ、と考えて。 結論。純情で性悪で幸薄い女ではないか、と。

 
授業で松尾スズキの「さっちゃんの明日」を見る。もうずいぶん彼の芝居とはご無沙汰で、なぜかっていうと、率直にいえば、手の内もう分かりましたと思ったからだが、久しぶりに見る(といっても時間の都合上、半分しかまだ見ていないのだけど)松尾くんの芝居、面白いと思った。 松尾くんの芝居に登場する女も、純情で性悪で幸薄そうだが、それにもうひとつ、下品が加わる。
岩松さんの芝居も松尾くんの芝居も、わたしはとても美しいと思っていて、その理由はいくつもあるけれど、純情はともかく、性悪で幸薄くさらに下品なこのねじくれ女は、フロベールではないけれど、「これはわたしだ」と云っているような潔さがあり、わたしはそれが美しいと思うのだ。

 
先日見たピッコロ劇団の「蛍の光」と決定的に違うのはここだ。と比べるのも鼻白むのだが。 ひとことで云えば、この舞台から聞こえていたのは、あの気持ちの悪い失恋ソングと同様、自己憐憫の歌声だ。 わたしかわいそうでしょ、でも、可愛いでしょ、という。
岩松さんや松尾くんの芝居には、気持ちがいいくらいこの自己憐憫がない。いや逆に、もしかしたら、究極の自己憐憫が語られているのかも知れないが。

 
気持ちの悪い歌う失恋女は、年をとったらきっと、背後から「えらいこいでどこ行くの?」と平気でいうようなおばさんになるのだ。わたしと他人との距離感も、わたしとわたしの距離感もないという点で、ふたりは同じ村の住人だし、「蛍の光」に手もなく感動してしまったらしい観客もまた同様だ。
わたしが大好きなひとたち。わたしと似ていないひとを認めず排除しようとするひとたち。
わたしは彼らをこう名づけよう、「れんびん村の住人」と。
ところで誰なの? あの気色の悪い失恋ソングを歌っている女?

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