竹内銃一郎のキノG語録

「室内」と「官能」をめぐって2015.01.27

柏木博は『探偵小説の室内』で繰り返し、室内はそこに住む人間の内面の表象であるという意味のことを書いている。

「キューティー&ボクサー」というタイトルは、登場する夫婦それぞれのニックネーム(仮名?)からきている。キューティーとボクサーの「室内」は実に雑然としていて、それは引越しの前後を思わせる。ふたりの住まいの部分とそれぞれの仕事部屋、それに作品を置いておく倉庫もあるらしいのだが、それらの位置関係がよく分からず、いま彼等がどの部屋にいるのかも分からず、更には、時折挿入される過去のフィルムが時間軸も狂わせるので、まさにシッチャカメッチャカなのだが、しかし、これまた時折差し挟まれるキューティーのさばさばした語りが「遠くにあるものたち」を近づけ、すべてが見事に渾然一体となっていて、その様がつまりはふたりの関係のあり方を物語っているのだ。

この対極にある「室内」が、「小さなおうち」の室内だった。というか、タイトルから誰もが想像するであろう物語は、それが最終的にハッピーに終わるかどうかはともかく、ほのぼのとしたホームドラマであるはずだが、この映画にはそれにふさわしい「室内」はどこにもない。前にこの映画に触れた際、不倫を物語の軸としながら、「官能の欠片もない」と書いたが、驚くべきことに、この映画にはホームドラマと言えば必ずある食卓のシーンさえない。まるで意識的に排除をしてるかのようだ。柏木の先の本には、W・ギブスン『ニューロマンサー』に触れながら、こんなことも書かれている。

「オウム真理教」における肉体蔑視、精神そしてそれをつかさどる脳を中心とした中枢神経への偏重は、SF『ニューロマンサー』の世界で描かれる人々の思考と重なり合っている。(中略)そこでは、自己の内面(インテリア)を映し出す「室内(インテリア)」への、十九世紀以来の「病的なまでのこだわり」は希薄化し、新たなインテリアとしての中枢神経を特権化する思考をみることができる。肉体を失った思考を、「内部」から「表層」へと向かう思考とみることもできる。   (「十九世紀の室内と電脳空間」より)

室内とはその家・部屋の住人の身体の表象でもあるから、室内が描かれなければ官能を感じられないのは当然である。一方、かのボクサー氏は映画の中で始終ものを食っている印象があり、作中でほとんどものを食べない「小さなおうち」とはこの点でも対照的だ。もの食うひと、あるいはその状態が、ある種の官能性を湛えていることは、改めて確認するまでもなかろう。

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