竹内銃一郎のキノG語録

「ボヴァリー夫人」と「I am Kenji」とマラマッド2015.01.31

火曜日にamazonから届いた蓮實重彦の「『ボヴァリー夫人』論」は、想像を超える厚さだった。842頁(書誌・索引も含む)もあって、広辞苑を除けば、わたしが持ってる本の中では最厚かと思ったらさにあらず。『東欧を知る事典』は843頁あった。

蓮實の本を読むのは久しぶりだ。相変わらずの文体。日本語は、主語の次に述語が来る英語等の構文と違って、センテンスの最後まで読まないと、それが否定文なのか肯定文なのかが分からないわけだが、蓮實の文章はひとつひとつのセンテンスが異様に長く、更に、肯定文だと思って読んでいたら最後に「~というわけではない」とひっくり返されることも多いので、最初はメンド臭ェなと思うけれど、読み進めているうちに癖になってしまう。難しそうな言葉が並んでいるけれど、ダラダラ続くその文章には特有のリズムがあって、それが読み手をいい気持ちにさせるのだろう。

とは言っても、飛ばし読みが出来るような本・文章ではないので、どうしても読んでるうちに眠くなり、これはいかんと隣の部屋に行って、眠気覚ましにTVを付ける。イスラム国とヨルダンの交渉がどうなっているかが気になる。

この気になる気持ちの中身は? と問えば、早くケリをつけろという苛立ちがあり、その早くと欲しがっている「ケリ」とは、なるべく「劇的なもの」であり、更にその先へと進めば、「劇的」でさえあればどんな結果でも構わない、という「危ナイ志向」がそこにあることが分かる。

危ない志向とは卑しい志向でもある。昨日、マラマッドの短編集に触れ、最後に、ユダヤ人の抱える苦悩や悲惨を自分は共有出来ないと書いたが、このこととあのことは微妙につながっている。ユダヤ人が抱える問題を理解できる、共有出来ると言ったら、わたしの危うさや卑しさが隠蔽されてしまうような気がする。立派なひとになってしまう。また、「わたしもまたユダヤ人を生きているのかもしれない」などと書いたら、身の回りの取るに足りない小さなことに一喜一憂しながら暮らしている日々が、まったく意味のないものになってしまうような気がする。わたしの立っている足場が崩れてしまう。tvカメラの前で「I am Kenji」と書いた紙を掲げる連中や、首相官邸前で感傷に浸りながら「ふるさと」(!!)を合唱する連中に苛立ちを感じるのは、そういった行動が、卑しさの大盤振る舞い以外ではないからだ。

『喋る馬』に収められた作品はどれも、この著者はユダヤ人以外ではありえないと思わせるものだが、しかし、そう書いた途端に、それらの作品に間違いなくあった重要なもの、例えば、ユーモア、ナンセンスといったものたちが、ただの味つけ程度の不当ともいえそうな位置に引き下げられてしまう。マラマッドは絶望の底に辿り着くまでまであと何メートルくらいあるのかと、その寸法をひとごとのように測っているような趣があり、それが多分「空虚とは無縁」の作品を生み出す素になっている。

 

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