竹内銃一郎のキノG語録

生命体の危機 久しぶりに授業で怒鳴ってしまった。2010.06.10

今日は久しぶりに授業で怒鳴ってしまった。一年生の文章表現。わたしが教室に入っているのに、いつまで経ってもザワワザしてる。普通ならばというか、これまで(の学生)ならば、30秒としないうちに静かになったのだけれど。
別にわたしが来たのに気づかないほど夢中で話をしているわけでもないし、傍若無人というわけでもない。それならばまだ救いがある。こっちも「教育」のしがいがある。そうではない。ただ淡々とざわついているだけなのだ。
同じ一年生の実習の授業で、背後からひとが近づいているのに振りむかないのは「生命体」として危ういぞ、と言ったことがあったが、同様の感想を持った。
教師であるわたしは、いうなれば、学生にとって危ない敵ではないのか? 敵が現れたのに、まったく無防備のままいることは、生命体として危ういのではないか。
いうまでもないことだが、彼らがわたしに友好的な感情をもっていようはずがない。 いや、敵という言葉は適当ではないような気がする。そう、他者・他人。他人は自分になにをするか分からない、敵なのか味方なのか分からない存在だ。
だから、通常の生命体は、他者・他人・見知らぬものには身構えるのだ。そのようにして自らを守ることは、おそらく生まれたときから備わっているはずの能力だ。それが!
わたしがそこにいるのに、あたかもいないかの如くかれらが振舞えるのは、わたしを無視しているのではなく、他者・他人というものがよく分からないか、知っているけど、どう対応していいのか分からないか、この世には他者・他人などというものが溢れていることを知らないか。
あるいは、こういうことも言える。通常の群れをなした生命体ならば、よく分からないものの接近に気づいたものが、気づかないでいる仲間に危険信号を送るはずなのだ。これまでの学生達はそのようにしていた。だから、ざわつきは30秒もしないうちにおさまっていたのだ。それが!
誰もが犯しやすい過ちを教室でも犯し、またここでもしてしまっている。「きみたち」とか「かれら」という主語は適切ではない。そこにいたすべての者が、「生命体の危機的物件」ではないからだ。
でもでも。なぜ真っ当な者たちは声をあげないのか。仲間に危険信号を発しないのか。(仲間だと思っていない?)
イジメの構造ってこういうものだろうな、と思った。もちろん、わたしはイジメられたと思ったわけではありません。
大きい声を出すと、途端に静かになってしまったのも、これにはこれでイラッとした。
これはもう退職された先生から聞いた話。授業中のお喋りがとまらない学生に、「出て行け!」と怒鳴ったら素直に出て行ったのだが、まだうるさい。ドアを開けると、すぐそこの廊下で喋っているので、「もっと遠くへ行って喋れ!」と怒鳴ってという ……。こういうのは愛嬌があっていいじゃないですか。そこまで喋りたいことがあるのかと、わたしは尊敬してしまう。
大丈夫だろうか、他人を知らない彼らは。

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