竹内銃一郎のキノG語録

運動=アンバランス   「ムーンライズ・キングダム」ノート②2015.04.03

舞台裏をうろうろする少年(サム)が、駆け落ちすることになる少女(スージー)に出会うまでの詳細はこういうことになっている。

サムは客席から抜け出て、劇場の外に出る。と、出番が間近に迫っているらしい、様々な動物の着ぐるみを着た子供たちが大勢そこで待機していて、彼らの間を通り抜け、ふと目に入った別棟が気になり、そこへ入って行く。と、階段に5、6人、黒い衣装を着けた子供たちが縦笛を吹いていて、その脇を抜けて前方の廊下を行くと、一室(洗面所?)で鶏の着ぐるみを着た少年が歯磨きしているのが見え、更にその先に進むと、女の子たちの声が聞こえ、そこを覗くと、鏡の前でメークをしていた6人の女の子たちが一斉に振り向く。「きみはなんの鳥なの?」とサム。みんな鳥の格好をしているのだ。「わたしは雀で …」とぽっちゃりというよりボッチャリした女の子が答えると、「違う。きみは?」とサムは、彼女の隣の黒い衣装を着けたスージーを指差す。「カラス」とスージー(この時のちょっとハスキーな声がいい!)。「その手はどうしたの?」とサム。スージーは右手に血の滲んだ包帯をしているのだ。「鏡を殴ったの」「なぜそんなことを?」「自分にキレたの」というスージーの答えにサムは二度三度頷く。スージーが聞く。「あなたの名前は?」「サム。きみは?」「スージー」

サムがスージーに出会うまでの道のり(距離にして100米くらいか)を丁寧にたどるのは、むろん、この映画の主題が「移動」であるからだが、サムの退屈しのぎのぶらぶら歩き=緩い時間は、唐突に出会ってしまったふたりの、先のような短い言葉のやりとりによって、一気に加速・加熱する。この時間の伸縮の激しさ=落差が素晴らしい。この映画は全編を通して常に「運動」を感じさせるが、それは、単に「移動」「追っかけ」等のシーンが多いからなのではなくて、このように、落差=「アンバランスなるもの」によって構成されているからだ。

もうずいぶん前になるが、ゴダールがこんなことを言っていた。曰く「昔の映画のほとんどは、90分くらいで完結していたのに、最近の映画の大半は2時間以上、中には3時間を超えるものまである。90分を超えた時間の大半は説明に費やされているという意味で、ほとんどムダな時間といえよう。なぜそんなことになっているのか。作る側が観客(の理解度)に対して不信感を持っているからだ」(正確な引用ではありません)

この映画の上演時間はほぼ90分。「グランド~」も100分よりも短い。もちろん、たまたまそうなったのではなく、ウェスの古の映画に対する敬意がそうなるように仕上げさせたのだ。因みに、今週に入って見た、「西部魂」(監督フリッツ・ラング 1941年公開)も「新吾二十番勝負 第二部」(監督松田定次 1962年公開)も、やっぱり90分モノだった!(続く)

 

 

 

 

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