竹内銃一郎のキノG語録

泣きの隣に笑いがある。  「ムーンライズ・キングダム」ノート④2015.04.07

少年少女の駆け落ちものとして有名なのは「小さな恋のメロディ」だ。ずいぶん前にTVで見たが、ふたりが手押しのトロッコで遠くに消えていく有名なラストシーンしか記憶にない。「ムーンライズ~」となにがどう違うのか比較してみたいと思っていたら、先週末、BS日テレでこれが放映された(嘘みたい!)。録画しておいたものを今日見たのだが、ウ~ン、これが。

ふたりの間に恋が芽生えるまで30分、デートするまで60分もかけるノロマさに苛々し、改めてウェス映画の異常ともいえる速さを再確認する。100分ほどの映画だが、そのうちの7~8割が「小さな恋」とは直接関係のない、双方の家族・家庭のシーンと学校生活・友人(たち)との交遊の描写に割かれている。要するに、「小さな恋」は、大人の子どもに対する無理解と、それが招いた大人vs子どもの対立を描くための「象徴的出来事」として扱われているに過ぎない。こういうのを<文学的>発想と言う。これは映画じゃない。脚本はなんとあの「ダウンタウン物語」を撮ったアラン・パーカー! 彼が監督をしていたら、おそらくこんな凡庸な映画にはならなかったろう。さらに驚いたのは。

この映画は、2010年開催の「午前十時の映画祭 何度見てもすごい50本」上映作品選定の参考のため、2009年10月に一般から募った投票では、第8位となる人気をみせたらしい。(ウィキよりコピペ)

ひとはそれぞれだから四の五の言うつもりもないのだが、あまりのことにため息が出てしまう。

「小さな恋~」の時代設定は、おそらく、公開されたは1971年のはずで、「ムーンライズ~」の時代設定は1965年となっているから、ほぼ同じ時代のお話だが、後者では「小さな恋」のために割いてる時間が全体の7~8割になっている。この数字は偶然とは思えない。「ムーンライズ~」は、映画が始まった時にはすでに、ふたりの足は駆け落ちを実行に移すべく、スターティング・ブロックにかかっている。やっぱりシナリオ(プロット)がうまく出来ている。例えば。

この映画を見た誰もがおそらく長く記憶に留めるであろう、感動的な、教会の尖塔でのシーン。未曾有の嵐が吹き荒れる中で、追い詰められたふたりは死を決意し、サムはきみに会えてよかったと言い、スージーもわたしもよと応えてキスをするのだが、ふたりの唇が触れ合った途端、ビビッと電流が走るのだ、比喩ではなく実際に。思わず笑ってしまうが、これにはそうなる必然がちゃんと用意してあって、この前に、サムは落雷を受けていてなんと黒こげになってしまっているのだ。でもなぜかすぐに起き上がる! それでスージーは、まだ体の中に電気が残っていたのね、なんて言う。ふたりは教会で出会い、教会で死のうと思う。さらに。初めて会った時にスージーが出演していた芝居は、「ノアの洪水」! 遊び? ギャグ? と思わせておいて、あとできっちり帳尻を合わせてる。ひとつの無駄もない。完璧です。

ところで、多田道太郎は、例の『変身 放火論』の中の「曽根崎心中」の章で次のようなことを書いている。

口は食べることとしゃべることと、両方一緒になっていること自体に深い意味がある。そこに神の英知、知恵があるという気がする。噛むというのは、口を開いたり閉じたり、両方の形を運動として起こさないといけない。外界への開放であり、閉鎖でありという両方の意味がある。もう一つ大事なことは、舐めるということです。(中略)口はただ物を食べるだけでなく、しゃべるだけでもなくて、噛むこともあるし、舐めることもある。口を開くこともあるし、閉じることもある。舌を出すこともある。(続く)

 

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