竹内銃一郎のキノG語録

自由のむこう側  「悲しき玩具 伸子先生の~」②2015.07.10

ある時、男子生徒(内山)は伸子先生に、「ぼくは先生のオモチャみたいなものですね」と言う。

「わたしは子どもの頃から母親の言うことをよく聞くいい子だった」と伸子先生は言う。なぜそんな「いい子」であるはずの伸子先生は、内山くんと淫らな関係をもつに至ったのか。自らの自由を束縛する母への抵抗だろうか? そうではあるまい。一見、母に従っているように見えて、母娘の関係においてイニシアチブをとっているのは、明らかに伸子の方なのだ。

内山くんとの「イケナイ関係」は、ケガをした彼を伸子先生が保健室へ連れて行ったところから始まった。内山くんは、日常的にクラスメートからいじめを受けていて、その日も彼らに殴られて鼻血を流したのだった。先生は、とりあえずの手当てをして部屋を出て行くのだが、なぜか、そっと保健室に戻ってみると、内山くんはベッドの上で○○をしていて、それを見て○○してしまった先生は、内山くんの隣で横になり、ふたりは互いの体を○○しあう。当然のように、内山くんはいざ○○をと先生の上になるのだが、伸子は「最後の一線」を超えることを許さない。これ以後、ふたりは幾度も淫らな行為に及ぶのだが、伸子は決して「最後の一線」を超えることだけは許さない。先の内山くんの「悲しき玩具」発言は、この事実を指している。

なぜ伸子先生は、それを許さないのか。その前に、なぜ彼女は、内山くんとの淫らな関係を続けたのか。言うまでもあるまい、それが社会規範=モラルに反することであり、それらを踏みにじることが彼女に自由=快楽を感じさせたからだ。そして、「それを許さない」という選択も、性行為の自然の流れからいけば、当然そこに至るはずの「最後の一線」を超えない、許さないことが、彼女の救い=クスリになること、「与えられた自由」ではなく「自らが選んだ自由」であること、そして、より大きく深い快楽につながることを発見したからだ。ひとは本当にしたいことをすると気持ちがいいのだ。

前回にも触れた沖島勲の「ニュー・ジャック&ベティ」は、「伸子先生~」と同様、気乗りのしない見合いをし、そして気乗りしないままに結婚することになる若い男女を中心に描かれる。お話は、結婚式の打ち合わせのために集まった両家の親・親族が酒の勢いも手伝って、全員で乱交に及ぶというとんでもないものだが、この作品を補助線にすると、「伸子先生~」の今日性がはっきり分かる。こんな言い方をしたら身も蓋もないが、「ジャック&ベティ」の主題は性の解放で、そのむこうに、まだ見ぬ「自由」な世界の到来=革命が待望されている。「伸子先生」はこの先を描く、「ニュー『ニュー・ジャック&ベティ』」なのだ。

「伸子先生~」は、校庭の片隅に置かれた鉄棒に逆さにぶら下がった伸子先生の見た目のショットで始まり、そして同様のショットで終わる。あたかも、この世界は、天地がひっくり返っているのだ、とでもいうように。それがいったいなにを指すのか。手触りはあるのだが、残念ながらうまく言葉にすることが出来ない。

 

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