竹内銃一郎のキノG語録

椅子はただ座るためにあるのではなく  演出ノート①2015.12.21

「演出とはなにか」という問いから始めるつもりで、そのための用意もしていたのだが、そんなに大上段に振りかぶることはなく、これまで稽古場で考え、語ってきたことをメモ風に書きつないでいけば、おのずとその解は浮かび上がるのではないか、と思い直す。

舞台上に置かれた大道具小道具は、舞台=世界を構成する重要物件である。たとえ石ころひとつであっても、それがあるとないとでは、世界の見え方・意味合いが変わってしまう。という文脈で考えると、机や椅子等々の普段見慣れたものも、それは<単なる机や椅子ではないなにか>でなければならないはずだ。日常的な風景に置かれる椅子は、座るため、あるいはなにかを置くために使われる道具・家具だが、それがゆえに、舞台上でそのように使用することには十分な注意が肝心だ。舞台という作られた虚構の世界が、俳優が椅子に座った途端に、ありふれた日常的な風景に成り下がることがあるからである。

椅子は、ただひとが座るためだけに存在しているわけではない。日常生活においても、その上に<立って>高いところにあるものをとるための踏み台代わりに使われ、<振り上げて>凶器として使用されることもあることを考えれば、舞台上においておや、である。椅子を日常の桎梏から解放せよ。もちろん、椅子に限らない。俳優も含め、舞台の構成物件ひとつひとつに、日常では見ることが出来ない、見落としてしまっている、当人でさえ忘れてしまっているのかもしれない、潜在的な表情を探りあて、そこに光をあてること。椅子は、ひとに座られてしまった時、ありうべき、よろこばしき表情を失って、哀れな奴隷に成り下がる。

チェーホフの「かもめ」に、椅子がただ単に<座るための道具>から解き放たれる(であろう)シーンがある。四幕。頭の中の大半を死に占有されたトレープレフの前に、思いもかけず、かっての恋人・懐かしいニーナが現れる。

トレープレフ (右手のドアに鍵をかけ、左手のドアに歩み寄る)ここには錠前がない。椅子でふさいでおこう。(ドアの前に肘かけ椅子を据える)さ、もう心配しないで、誰も来ないから。(神西清訳)

トレープレフが「左手のドア」の前に肘かけ椅子を置いたのは、ニーナが「誰にも会いたくない」と言うからだ。そのドアの向こうは食堂になっていて、トレープレフを除く他のひとはみな、歓談しながら食事をしている。この時、椅子は、座るためのものという役割からはなれ、<ドアの障害物>として使用されているが、これは日常生活でも見られる光景であり、使用法だ。注目すべきは、ドアの前に置かれたということだ。前述したように、ドアの向こうではみなが楽しく食事をしていて、みなの中には、ニーナが<会いたくないけど会いたい>という複雑な思いを抱えている、トリゴーリンがいる。椅子がそこに置かれているために、ドアはことさらにクローズアップされ、いつかドアは開けられるのではないか。もしもドアが開いて、トリゴーリンが現れたら、ニーナは、トレープレフはどうなるのかという、極めてサスペンスフルな時間が現出するのだ。

椅子がドアが、日常の文脈から離れ、舞台という虚構の空間で独自の輝きを放つとは、こういうことである。もちろん、そこに光をあてるのは演出家の仕事であり、戯曲に書かれたそのト書きを演出家がスルーしてしまえば、椅子もドアも、文字通り絵に描いた餅になってしまうことは、言うまでもない。

 

 

 

 

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