竹内銃一郎のキノG語録

<スラスラ語り>から遠く離れよ。 ことばをめぐるアレコレ②2016.03.11

TVで久しぶりに「生の言葉」を聞き、「生の表情」を見た。一昨日の報道Sの冒頭で流された、読売巨人・高木京介の謝罪記者会見である。何度も間を置き、言いよどみ、言い直しするその様は、まさに言葉との格闘と言ってよく、緊張感に満ちた表情ともども、わたしにはことさらに美しいものであるように思われた。

ひとは真実を語らんとすれば、言いよどみ、言い直しするのだ。だから、訳知り顔で、あるいは深刻そうな表情を浮かべつつ、しかしそれとは裏腹に、スラスラと言葉を並べてみせるTVのキャスターやらコメンテーターやら、あるいは、インタヴューに答える街のひとなどは、そんな問題も、それについて語ることも、自分にとっては痛くも痒くもないドーデモイイことで、わたしの喋りはテキトーですと、言外に語っているのだ。

言葉は個人それぞれのためにあるのではなく、広く万人のために作られている。そして、言葉の多くは、他者との円滑なコミュニケーションを成立するために消費されている。だから、先の高木のように、衆人の前に立たされ、半ば強制的に<わたしの真実>を語ることを強いられると、まずは過度の緊張があり、次には真実を語る経験の不足があり、そして、<言葉の不足>という現実に突き当たる。つまり、語らんとすればするほど自らの思いに見合う言葉がないことに気づいて、言いよどみ、言い直し、そして、言葉がうまく出てこないので、間を置いてしまうことになるのだ。

表現とは、現実の異化だ。異化とは、現にそこにあるのに、埋もれてしまって見えなくなってしまったもの、忘れられてしまったものを、掘り起こし,蘇らせることだ。と考えるならば。台詞として語られる劇の言葉は、円滑なコミュニケーションを図るためと称して(?)語られる、<スラスラ語り>から遠く離れ、それらを異化するものでなければならないはずだ。その好例が、前回で触れた推定二歳半の男の子の「きれい」であり、高木の謝罪会見である。

それにしても。野球賭博は、人生を棒にふるに等しい大罪なのだろうか。ワイドショーのコメンテーターとしてご活躍の大谷某は、あろうことか、高木を犯罪者と呼んでいた。確かに野球協約が定める決まりは犯したかもしれないが、それは言ってみれば学校の校則違反に等しい内々のもので、まだ司直の手も入っていないのに、犯罪者呼ばわりするって酷すぎないか。日頃は人権派的な発言をするこのクソ爺、お里が知れたと言うべきか、あるいは、スラスラ語りの本質ここに在り、と言うべきか。それはともかく。たかが不倫程度で全番組・CMから降ろされた(降りざるをえなかった)ベッキーともども、明らかに不当な厳罰に処せられている。あれもこれも、結局、世間の声(=スラスラ語り集団)に従うポピュリズム。なんて無責任でさもしい世の中だろう。

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