竹内銃一郎のキノG語録

無秩序な世界を提示する。  「~魂~」ノート③2016.04.18

「晩春」を見たのは、別に今度の演出の参考にしようと思ったからではなく、たまたまデジタルリマスター版が放映され、それがどんなものかと興味を持ったからに過ぎない。しかし。土曜日に送られてきた「或いは魂~」の改訂版を読み直して見ると、小津映画と重なるところが多々あることに気づく。思えば、土橋くんと初めて出会ったのは、わたしが小津映画を中心に話した、大学の「演技・演出論」の講義だったのだ。

彼がこの戯曲を書くにあたって、どれほど小津映画を意識していたのか、それは分からない。映画監督の吉田喜重は『小津安二郎の反映画』(岩波書店刊)の中で、繰り返し「無秩序な世界」という言葉を使って小津映画を論じているのだが、「或いは魂~」は、前々回書いたように、複数の<無秩序な男女の性愛>を軸に書かれている。いや、性愛という表現は適切ではない。前述の吉田の言葉を使えば「許されぬ思慕」、あるいは、「慎ましい恋愛感情」と言うべきだろう。

「晩春」は退屈な話だと書いたが、筋立てとしては唯一、誰もが<劇的>と思われるシーンがあり、それは前々回に書いた、娘が父への告白をする朝の前日の夜、京都の旅館で、父娘が枕を並べて語り合うシーンである。なにが語られるわけではないが、というか、父はほとんど「うん」とか「ああ」しか言わないのだが、その不成立な会話が、あってはならない<不測の事態=無秩序>を予期させ、見るものををドキドキさせるのだ。そんないささか品性に欠ける想像を膨らませて、わたしは「東京大仏心中」を書いたのだが、吉田は前掲の書で、このシーンのことを次のように書いている。

おそらくこの場合、性的欲望といささかもかかわりのない、もっと限りなく開かれた、異性を恋うる心といったものをわれわれは想像すべきではなかっただろうか。それはもはや男と女とのあいだの性と名付けることすら愚かしく思われるような、肉体の果てしない深奥に予感されるきずな、その言いようのない温もりのことであっただろう。

「或いは魂~」では、男女の性的関係の有無が明示されることがない。唯一、母の若い婚約者がそれに触れる発言をするのだが、しかしそれも、以前つきあっていた女性に、別れたあとも執拗なストーカー行為に悩まされているが、彼女とはセックスはしていないと次男に語るだけのことだ。物語の世界はもちろん、現実の日々でも、惚れたのはれたの別れるの別れないのといった言葉が、人生最大の<劇的な出来事>であるかのように思われ語られている中で、性愛に触れないというこの作品の慎ましさは、フツーではない。という意味で、ここに描かれているのは<無秩序な世界>以外ではない、とわたしは思うのだ。

 

 

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