竹内銃一郎のキノG語録

田村信のマンガはすがすがしいのじゃの巻2016.04.30

「~魂~」の稽古は来月9日から始まるのだが、それに先立って、昨日はキャスト全員と舞台監督、照明担当が集まって顔合わせ。一時間ほど雑談を交えながら、今回公演の演出担当者としての所信を表明し、続いて読み合わせ、あわせて3時間ほど。それから一同飲み屋で歓談。演出は今回で何度目になるのか。100回くらいはやってるはずだが、それでも始まりの不安は何回やろうが、変わらない。

朝、出かける前に、amazonから田村信の『できんボーイ 完全版1』が届く。顔合わせ場所の最寄り駅・西宮北口駅までの車中、これを読もうとカバンの中に入れようとしたが、厚くて入らず。後ろ髪ひかれる思いで「できんぼ」は家に残して …

3日前。ふと、若冲はなぜ一時期忘れられたひとになっていたのかと気になり、そして、再びふと、同様にいまは忘れられたひとになりつつある、田村信の近況はどうなっているのかとネットで検索したら、「BSマンガ夜話」で彼を取り上げた回がユーチューブで見られることが分かり、それを見る。画面に映し出される「できんボーイ」に笑い、懐かしさに震える。番組内でも出演者たちが異口同音に「なぜ田村信の正当な評価がなされないのか」と語っていたが、この番組が放映されたのは2001年で、この時点ですでにこういう声があったことにショックを受ける。出演者のひとり、石川某(名前失念)が言うには、彼のマンガには無意味なギャグしかなく、自分はそれが凄いことだと思うが、多くの人は笑いには風刺が必要だ、社会批判文明批評のない笑いなんてと、この無意味の凄さを認めないのだ、と。そうなのだ。このわたしですら(?)、無意味に徹底したいと思いながら、そして、不条理だのシュールなどという言葉を使って自作に評価を与えるマジメな方々を小馬鹿にしているのに(シミマセン)、やはりどこかで、有意味の味付けをしてしまう。

家に帰って、睡魔と闘いながら『できんボーイ 完全版』の半分、300頁ほどを読む。「少年サンデー」で読んだのは、今から40年ほど前のはずだが、多くのコマ、幾つかの話は鮮明に記憶の中にあったことに驚き、さらに、これは先の番組内でも誰かが語っていたが、初めて読んだときと同じように笑えることにはさらに驚く。ただ単に懐かしい、だけではないのだ。

文学も映画も大半のものは時間の経過とともに、その面白さは風化していく。こういう言い方を不当に思われる方もおられようが、マンガは基本的に<消耗品>で、とりわけギャグマンガはその最たるものだろう。漫才などもそうだ。昨日も飲み会の場で話していたのだが、いまだに漫才の最高峰と評価されている<やすし・きよし>の漫才など、いまはもうクスリともしない。もちろん、例外はあって、それは中田ダイマル・ラケット、獅子てんや・瀬戸わんやの漫才だが、ギャグマンガで彼らに匹敵するのが、田村信のマンガで、それは社会風刺などという分かりやすさを振り捨て、ナンセンスに徹底しているからだ。

なにかといえばすぐに<しり>を出す登場人物たち。そこには馬鹿馬鹿しさ以外のなにもない。ああ、なんとすがすがしいことよ!

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