竹内銃一郎のキノG語録

粉飾にさらに粉飾を重ねる愚について 「或いは魂の止まり木」稽古ノート①2016.05.19

稽古inした先週の月曜から、ほとんどからだを動かしていないことに気づき、これはいかんと火曜日、伏見稲荷から石峰寺へウォーキング2時間。石峰寺には、若冲が下絵を描いた五百羅漢があり、ずっと気になっていたのだ。行ってみると、想像していた以上の素晴らしさ。2年前に京都に移り住んでから、暇にまかせてあちこちの名所や美術展等に出かけたが、この石峰寺がわたしのNO1。羅漢さんのユーモラスな、喜怒哀楽様々なその表情にこちらの表情も思わずゆるみ、心を洗われる。

稽古はまだ一週間の余を過ぎたばかりだが、全体の半分まで進んでいて、すこぶる順調だ。しかし、本番までまだ約二カ月もある。出演者諸君に繰り返し言っているのはこのことだ。つまり、この時点で芝居を固めてしまうと、毎日の稽古が同じことの繰り返しで退屈になってしまう。そうならないためには、目標のレベルをさらに上げ、積んでは崩しの試行錯誤に、躊躇うことなくチャレンジしてほしい、稽古は日々冒険の連続でなければ、と。

いわゆる近代劇における演技は、日常生活での振舞いをモデルとしている。かといって、日常における振舞いをそのまま舞台にのせるだけでは、当然のことながら「劇」にならない。というわけで、台本の指示するところをもとに、自らの振舞いに喜怒哀楽の色をつける。演者・観客を問わず、多くのひとはそういうものを「演技」だと考え、そして、その<色付け>を的確かつあでやかになしうるひとのことを、「達者」と称賛するのだが、落とし穴はここにある。そもそもわたし達の日常の振舞いには、すでに色付け=粉飾がほどこされているはずだ。三つ四つの可愛い子どもでさえ他と接する時には、自らをより可愛く、あるいはより大きく強く見せようと、媚態や自己顕示を露わにする。哀しいことに、それは無意識のうちに身につけた経験知であり、生き抜くための術なのだ。すでになされている粉飾にさらに粉飾を施すことは、昨今世間を賑わせている現・東京都知事の言動と同様の、言うなれば、恥の上塗りなのではないか。

以前書いたように、今回の劇は<ふたりきりの対話>が大半を占めているのだが、その両者の背後には<不在の第三者>がいて、ふたりの対話の内容が、たとえ埒もない世間話の態をなしていようと、ふたりの間には常に<不在の第三者>をめぐる<潜在的な対立>がある。言うまでもなく、多くのひとは争いごとを好まない。だから、賢明であればあるほど、ひとはその<潜在的な対立>を露わにしないよう努めるのだが、時にぽろりと、それこそ上手の手から水がこぼれるように、俗にいう本音をもらしてしまう。今週に入って、その<ぽろり>の表現を成立させるには、いかなる角度からアプローチすればいいのかという話をしているのだが、長くなったのでその具体は次回に。

 

 

 

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